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第二百四十三段

 さて、とうとう最後の段になりました。
 この段は、兼好の家族が語られる唯一の段で、しかも大変心温まるいい話です。

 父は、初めは幼い息子のかわいい質問に多分気軽に答えていたのでしょうが、突然思いがけない究極の質問に向き合わされて、返事に窮し、やむなく笑ってごまかすしかありませんでした。

 そして父は、そういうまじめで的確な追求ができる息子をひそかに誇らしく思い、また驚きもあって、親しい人幾人もにその話をせずにはいられなかった、というのです。

 最後の「語りて興じき」が、何気ないながらいい言葉で、ただ「語りき」と書いたのと比べてみると、父親の息子と向き合って困っている様子や、知人に嬉しそうに語っている様子が思い浮かべられて、いっそう楽しい一段になりました。

 ところで、今まで書かれたことのない題材が最後の段に置かれていることで、この段に特別の意味、あるいは寓意を見出そうとする読み方がいろいろにあるようですが、『全注釈』、『全訳注』の双方が言うように、それは読みすぎになるような気がします。

 そもそも、兼好自身は、この段を以て『徒然草』の筆を置く、というようなことを考えたわけではないのではないでしょうか。

 ここまでにも途中に、長短はあっても幾度かの休筆の期間があったように、ここもまたそういう終わり方で、いつか書き継ぐようなつもりで残されて、けっきょくそのまま後が書かれなかった、この本はそのようにして私たちの前にあるのではないでしょうか。
私は『徒然草』を完結した書物と考えるのではなく、吉田兼好という歌人が余技として書き残した、日記であり、
メモ、習作集、聞き書き集であるような、つまりまとまった作品になる意図のなかった、雑記帳だったのではないかと考えて読んできました。

 もちろんそれは、結果としてのこの作品の価値を減殺するものではないと考えています。

 ここに書かれた様々な人間の姿は、筆者の筆力によって、私たちに、筆者自身も含めた人間という存在の幅と奥行きを随分楽しく教えてくれます。
 もう一度繰り返せば、ここには幅広い人間の高貴と愚かしさとがこもごもに語られて、雑然としながら、言わば果てのない世界の一部となっています。

 それが完結しないのは、むしろ当然だと言ってもよいのです。
 私たちは、兼好が、再び筆を執って更に人間の悲喜劇を書き加えてくれなかったことを残念に思いながら『徒然草』という「本」を閉じるしかありません。
 そして私のこのブログもまたここで一応閉じることにします。

《一応の「後書き」として》
 時々「アクセス解析」を覗いてみて、随分多くの人に見ていただいている(読んでいただいたかどうか解りませんが)ことに、書き続けていく上で、ずいぶん力づけられました。
 そして、ブログというものを教えてくれた娘の叱咤と巧みなおだてにも力づけられました。
その結果、私は今、我ながら大変なことをやったというような気持ちでいます。
 そこで私は、暫く充電期間をおいて、来年の一月四日に、また別の古典作品について語り始めて見たいと考えています。
 その時また、覗きに来ていただければ、大変嬉しく思います。
 ではまたお目にかかれるのを楽しみに…。

《原文》
八つになりし年、父に問ひて云(い)はく、「佛はいかなるものにか候らん」といふ。父が云はく、「佛には人のなりたるなり」と。また問ふ、「人は何として佛にはなり候やらん」と。父また、「佛のをしへによりてなるなり」とこたふ。また問ふ、「教へ候ひける佛をば、何がをしへ候ひける」と。また答ふ、「それもまた、さきの佛のをしへによりてなり給ふなり」と。又問ふ、「その教へはじめ候ひける第一の佛は、いかなる佛にか候ひける」といふとき、父、「空よりや降りけん、土よりやわきけん」といひて、笑ふ。
 「問ひつめられて、え答へずなり侍りつ」と諸人(しょにん)にかたりて興じき。


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