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第二百三十六段

 いかにもありそうな失敗談で、これも書中屈指の愉快な話です。兼好はこういう話が大好きらしく、その書きぶりも鮮やかです。

 獅子と狛犬の不思議な配置に気付いた上人は、深い由緒を期待してその感激が次第に昂じ、自分の発見の輝かしい栄誉が定まるだろうと得意に胸を膨らませた次の瞬間に、逆に自分の粗忽ぶりが露呈してしまうという、ドラマテイックな構成が大変効果的です。

 神官の動作に「往にければ」を添えたのも心憎く、一行の空しく取り残された感じが目に浮かぶように浮き彫りになりました。

 そしてその後何が起こったかを一言も語らない手法は、兼好のよく用いる手ですが、ここでも、言いようのないおかしさを余韻として増幅してくれています。

 ところで、こういう話に兼好の批判精神、反権威の態度を見ようとする読み方があるようですが、そうではないだろうという気がします。

 兼好は、例えばこの上人の「センチメンタリズム」を「批判」している(『作品研究』)わけではなく、また「冷ややかに語る」という姿勢で書いている(『古典』)わけでもなく、ただそこに起こった事柄をおかしがり、そのように振る舞う人間をおもしろがっているだけなのではないでしょうか。

 確かに『徒然草』にはいくつかの学僧の失敗談や権力者の権威が失墜する話がありますが、反対に高僧の高僧たる所以、権威あるべきもののゆかしさを語った段もそれと同じほどあって、そういう彼らに対して十分な敬意を払っています。

 彼は、反権力、反権威の思想はもちろん、恐らくそんな意識さえ決して持ってはいなかったと思います。
 彼はただ人間がおもしろかったのです。
 第六十段で盛親僧都を、また第八十四段で法顕三蔵を語る時も、第四十二段で良覚僧正を、そしてこの段で聖海上人を語る時も、同じようにそこに人間の神聖な悲喜劇を見ているのです。

《原文》
丹波に出雲といふ所あり。大社を遷して、めでたく造れり。志太の某(なにがし)とかやしる所なれば、秋の頃、聖海上人、その外も人數多(あまた)誘ひて、「いざ給へ、出雲拜みに。かいもちひ召させん」とて、具しもていきたるに、おのおの拜みて、ゆゝしく信起したり。
 御前なる獅子・狛犬、そむきて後ざまに立ちたりければ、上人いみじく感じて、「あなめでたや。この獅子の立ちやういと珍し。深き故あらむ」と涙ぐみて、「いかに殿ばら、殊勝の事は御覽じとがめずや。無下なり」といへば、おのおのあやしみて、「まことに他に異なりけり。都のつとにかたらん」などいふに、上人なほゆかしがりて、おとなしく物知りぬべき顔したる神官を呼びて、「この御社の獅子の立てられやう、定めてならひあることにはべらむ。ちと承らばや」といはれければ、「そのことに候。さがなき童どもの仕りける、奇怪に候ことなり」とて、さし寄りてすゑ直して往にければ、上人の感涙いたづらになりにけり。
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