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第六十段「真乗院に、盛親僧都とて、やんごとなき智者ありけり」

 やはりこういう一種滑稽な人物を描く時の兼好の筆はひときわ冴えます。
 それほどにこういう人に関心を抱いたということでしょう。

 盛親僧都は最初に「やんごとなき智者」と紹介されます。
 そこで読者はどんなに優れた僧かと思って読むのですが、後半途中、わずかに「みめよく、力強く、大食にて、能書、学匠、弁説ひとにすぐれて…、寺中に重く思はれたりけれども」というそれらしい一節がありますが、それ以外の語られるすべては、意外にも、この僧のすることなすこと、どこをとっても、言わば奇矯な行動としか思われないことばかりです。

 まず、この僧は「いもがしらといふ物」(里芋の親芋)を好んで食べる人です。「といふ物」と言うのですから、当時の人の通常の食べ物ではないわけで、それだけで十分妙な人ということになるでしょうが、あわせて「いもがしら」の無骨な姿が僧都の姿にだぶって思い浮かびます。

 彼はその「いもがしら」を「大きなる鉢にうずたかく盛りて」、四六時中、仏説の講義の座でも、病気の療治中でも、そして師匠から遺産をもらえばそれも含めて文字通り全財産を掛けて、それも人に勧めることもせず一人で、食べます。
 第四十段には栗しか食べない娘の話がありましたが、これだけでも十分奇譚です。

 「しろうるり」の話も、通常およそあり得ない発想で、読者は、僧都の真面目なそっけない顔と、それに向き合った尋ねた人の呆気にとられた顔を思い浮かべて笑うしかありません。

 以下、一切の世間的桎梏を無視して自由に心の欲するままに生き、「世をかろく思ひたる曲者」であると語られるのですが、それなのに彼はなぜか「人に厭はれず、よろづ許されけり」というわけで、初めに「やんごとなき」と言った所以が示されます。

 『全注釈』がこの段について、「盛親の自由境が、単なるわがままではなくして、その人格的精進の到り達した所に展開した、超常識的な個性的絶対性に貫かれていることを兼好が直感した…。…かかる盛親の自由境を、自己の望み得る、憧憬の対象としてではなく、自己の達し得ざる、高き境地として観照している」と書いていますが、一応はそういうことなのでしょう。

 しかし、最後にその理由を「徳の至れりけるにや」と疑問形で書いたのはなぜだろうという疑問が残ります。

 一種の感嘆表現ともとれますが、作中に称讃する人物評でそういう表現法は他になく、大抵は明解に言い切っています。第三十九段の法然は「尊かり」、第五十一段の氏の土民は「やんごとなきものなり」、第百八十四段の「松下禅尼」は「ただ人にはあらざりける」などです。
 あるいは「自己の達し得ざる、高き境地」だから疑問文で書いたのかも知れないということも言えます。

 しかし、兼好は実際に盛親の素晴らしさを実感したわけではなく、書かれている範囲では、人が嫌わず、許しているという状況を知って「やんごとなき」と言っているに過ぎません。その具体的根拠を兼好は明確には理解していないわけです。

 実は、仮に私の周りに現実に盛親のような人がいた場合、私は、彼を嫌わず、許すだろうかと考えると、自信がありません。

 兼好は、本当に不思議に思って、最後を疑問形にしたのではないでしょうか。
 そういえば「人に厭はれず、よろづ許されけり」なのであって、「人」も、言わば消極的に許容しているだけで、盛親の「超常識的な個性的絶対性」を把握して称讃しているわけではないのではないか、とも思われます。

 そうだとすると、この段も「人格的精進の到り達した」などとあまり求道的な内容と考えるのではなく、兼好の関心は、実は盛親の奇人ぶりの方により多くあったのだと考える方がよいのではないでしょうか。

 もちろん、その奇人ぶりにもかかわらず「人に厭はれず、よろづ許されけり」というようであることが誰にでもできることではないことを、十分に認めることには、いささかもやぶさかではありませんが。

《原文》
 眞乘院に、盛親僧都(じょうしんそうず)とて、やんごとなき智者ありけり。芋頭(いもがしら)といふ物を好みて、多く食ひけり。談義の座にても、大きなる鉢にうづたかく盛りて、膝もとにおきつゝ、食ひながら書をも讀みけり。煩ふ事あるには、七日(なぬか)、二七日(ふたなぬか)など、療治とて籠り居て、思ふやうによき芋頭を選びて、ことに多く食ひて、萬の病をいやしけり。人に食はすることなし。たゞ一人のみぞ食ひける。極めて貧しかりけるに、師匠、死にざまに、錢二百貫と坊ひとつを讓りたりけるを、坊を百貫に賣りて、かれこれ三萬疋を芋頭の錢(あし)と定めて、京なる人に預けおきて、十貫づゝ取りよせて、芋頭を乏しからずめしけるほどに、また、他用(ことよう)に用ふる事なくて、その錢(あし)皆になりにけり。「三百貫のものを貧しき身にまうけて、かく計らひける、誠にあり難き道心者(だうしんじゃ)なり。」とぞ人申しける。
 この僧都、ある法師を見て、「しろうるり」といふ名をつけたりけり。「とは、何ものぞ」と、人の問ひければ、「さる者を我も知らず。もしあらましかば、この僧の顔に似てん」とぞいひける。
 この僧都、みめよく、力強く、大食(たいしょく)にて、能書・學匠・辯説、人にすぐれて、宗の法燈なれば、寺中にも重く思はれたりけれども、世を輕く思ひたる曲者にて、萬(よろづ)自由にして、大かた人に隨ふといふ事なし。出仕して饗膳などにつく時も、皆人の前据ゑわたすを待たず、我が前に据ゑぬれば、やがて獨り打ち食ひて、歸りたければ、ひとりついたちて行きけり。齋(とき)・非時(ひじ)も、人に等しく定めて食はず、我が食ひたき時、夜中にも曉にも食ひて、睡(ねぶ)たければ、晝もかけ籠りて、いかなる大事あれども、人のいふこと聽き入れず。目覺めぬれば、幾夜も寝(い)ねず。心を澄まし嘯(うそぶ)きありきなど、世の常ならぬさまなれども、人に厭(いと)はれず、萬(よろづ)許されけり。徳の至(いた)れりけるにや。




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第五十九段「大事を思ひ立たん人は、去りがたく心にかからん事の本意を遂げずして、さながら、捨つべきなり」

 前半の言い訳の言葉が的確でおもしろく、わずかに一言ずつでそれを言っている人のタイプを描き分けています。
 順に、地道な人、少し打算的な人、気配りの人、思索的な人とでも言えばいいでしょうか。
 最後の人が、私には最も興味があります。彼は自然な流れの中で生きたいと思っているのあって、任運騰々たる生き方とも言えて、納得させられてしまいそうな気がします。

 そして「えさらぬ事のみいとど重なりて」となるわけですが、「えさらぬ」は当人にとってそう思われるだけで、兼好は、その次々にやって来る「えさらぬ事」自体が全て口実に過ぎないのだと思っているわけで、大変皮肉でおかしい言葉です。

この段も、前段同様、ここまででよかったのではないでしょうか。

 筆の勢いでしょうか、先へ書き進めますが、無常迅速を説いて仏道修行を勧める話になると、兼好の口調は一変して過度に激しくなります。
 『全注釈』は「諸縁放下の覚悟を在俗の読者に向かって力強く説き示す立場に立っている」としています。
 しかし、繰り返しになりますが、実際に出家した兼好も、『集成』の「解説」などによれば、仏道にこのように一途に徹底して邁進していたわけではないようです。
 歌道と生活と仏道とのそれぞれに生きている自分に苛立つときもあったということなのでしょうか、自分を叱咤しているようにも聞こえます。

 「近き火などに逃ぐる人は」以下は、そのまままともに受け取れば「火難に際して人間の心意行動、捉え得て眞實を極めている」(『作品研究』・「行動」のあとの読点は、「を」の誤植ではないかと思われますが、一応原文のままとします)という読み方もあるにはあるのでしょうが、前半の言い訳の例示の的確さとは異なって、いささか勢い余った表現と思われます。

 例えば、火事の時に「わが身を助けんとすれば、恥をもかへりみず、財をも捨てて逃れさるぞかし」と言っていますが、その中の「恥をもかへりみず」は、後の話からいえば、「老いたる親、いときなき子、君の恩、人の情け」を捨てることの「恥をもをかえりみず」ということになるでしょう。

 火事の時、確かに現実にはそうしてしまうかもしれませんし、「無常(死)の来たる時」には誰しもそうするしかないわけですが、その二つはどう考えても同じレベルで論じることではないでしょう。
 一方は自分の意志ですることで、一方は自然の摂理なのです。

 むしろ「少しこころあるきは」の人にとっても、こういう言葉は言わば決まり文句の大袈裟な比喩に聞こえて、鼻白んでしまう恐れなしとしないと思うのは、仏道に暗い現代人の感覚ということになるのでしょうか。

 こういうことについての兼好の考え方は、私には、例えば第八十四段の話の方が、彼の平常の素直な気持ちだと思います。

《原文》
 大事を思ひたたむ人は、さり難き心にかゝらむ事の本意を遂げずして、さながら捨つべきなり。「しばしこの事果てて」、「同じくは彼の事沙汰しおきて」、「しかしかの事、人の嘲りやあらん、行末難なく認め設けて」、「年来もあればこそあれ、その事待たん、程あらじ。物さわがしからぬやうに」など思はんには、え去らぬ事のみいとゞ重なりて、事の盡くる限りもなく、思ひたつ日もあるべからず。おほやう、人を見るに、少し心ある際は、皆このあらましにてぞ一期は過ぐめる。
 近き火などに逃ぐる人は、「しばし」とやいふ。身を助けむとすれば、恥をも顧みず、財(たから)をも捨てて遁れ去るぞかし。命は人を待つものかは。無常の來ることは、水火の攻むるよりも速かに、遁れがたきものを、その時老いたる親、いときなき子、君の恩、人の情、捨てがたしとて捨てざらんや。




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第五十八段「『道心あらば、住む所にしもよらじ』」

この段の話の運びには、少し違和感を覚えます。

第一段落では、仏道修行は生活の仕方という表に現れる形からきちんとしなくてはならない、と閑居の大切なことを説き、第二段落は、そうは言っても「世捨て人も人間である以上、俗人とまったく似ずに生きることはできない」(『全訳注』)のだから、「いくばくか人の費えをなさん」と、柔軟な考えを述べて、この順序は自然です。

ところが第三段落は一変して、「菩提におもむかざらんは、よろづの畜類にかはるところあるまじくや」と激しい言葉で不徹底を戒めます。

趣旨は分からなくはありませんが、その語調の跳ね上がりに驚かされます。

この段は、第一段落が執筆の主たる動機となった内容で、第二段落はその補足、そして第三段落は筆の勢いに過ぎないのではないでしょうか。
なぜなら、第一段落が、兼好がどこかで言いそうなことで、しかもあまり言っていない事だという点で、おもしろいからです。
何と言っても「心は縁にひかれて移るもの」という言葉が優しくまた鋭い言葉です。

本当に大切なものは「心」という形のないものだが、それは必ず形を伴わなくては保てないと彼は言います。「道心」さえあればよいというのではなく、その道心を保つためには在俗のままではいけないので、「住む所」、生活の仕方を選ばなくてはならない、もっと言えば、「住む所」を選んでいるかどうかが「道心」の有無の証しとなると言うのです。

第三十九段の法然の言葉「疑ひながらも念仏すれば往生す」が思い出されます。

兼好は「品のほど」(第五十六段)というように精神は重んじても、「品」さえ保っておれば形はどうでもいいというような精神論者ではなく、形が心を導くということを心得た、現実を見据えたリアリストです。

第三段落で不思議なのは、「菩提におもむかざらんは、よろづの畜類にかはるところあるまじくや」というのが本心なら、そこまで言いながら、彼はどうして本当に「世」を遁れることを遂にしなかったという点です。
彼の晩年はよく解らないようですが、『集成』や『兼好』によれば、少なくとも仏道三昧とはほど遠い暮らしをしていたように思われます。
 この作中にこれまでも、そしてこれからもときおり書かれる激しい出家遁世・諸縁放下の言葉(例えば第三十九段や第百八段)とは違って、彼の生活は、ここの第二段落に書かれているような現実的な、「かたちに恥づる所もあれば、さはいへど、悪にはうとく、善には近づくことのみぞ多き」という程度の出家だったということなのでしょうか。

 私は兼好の仏道修行の不徹底や矛盾を批判しようと思っているのではありません。彼をむやみに求道的な人物と考えたくないだけなのです。
 そういう考え方から離れて、もっと自由にあるがままの『徒然草』を読みたいのです。

《原文》
 「道心あらば住む所にしもよらじ、家にあり人に交はるとも、後世を願はむに難かるべきかは」と言ふは、更に後世知らぬ人なり。げにはこの世をはかなみ、必ず生死を出でむと思はむに、何の興ありてか、朝夕君に仕へ、家を顧る營みの勇ましからん。心は縁にひかれて移るものなれば、靜かならでは道は行じがたし。
 その器物(うつはもの)、昔の人に及ばず、山林に入りても、飢をたすけ、嵐を防ぐよすがなくては、あられぬわざなれば、おのづから世を貪るに似たる事も、便りに觸れば、などか無からん。さればとて、「背けるかひなし。さばかりならば、なじかは捨てし」などいはんは、無下の事なり。さすがに一たび道に入りて、世をいとなむ人、たとひ望みありとも、勢ひある人の貪欲多きに似るべからず。紙の衾(ふすま)、麻の衣、一鉢のまうけ、藜(あかざ)の羮(あつもの)、いくばくか人の費(つひえ)をなさむ。求むる所はやすく、その心早く足りぬべし。形に恥づる所もあれば、さはいへど、惡には疎く、善には近づくことのみぞ多き。
 人と生れたらんしるしには、いかにもして世を遁れむ事こそあらまほしけれ。偏に貪ることをつとめて、菩提(ぼだい)に赴かざらむは、よろづの畜類にかはる所あるまじくや。




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第五十七段「人の語り出でたる歌物語の、歌のわろきこそ、本意なけれ。」

 「歌物語」は時代のものとしても、「すべて、いとも知らぬ道の物語りしたる、かたはらいたく、聞きにくし。」となると、前の段の延長で、これもまた、全く誰でもよく経験する話で、「自己批評を欠いた人のしたりげな話をにがにがしく聞く兼好の姿がここにもある。」と『全訳注』は書いています。

 そう言われればそのとおりで、そういうことをしないように気を付けなければ、という気がします。
 しかし、こういうことを誰もしないような世の中というのは、いかにも人畜無害、公衆衛生だけが行き届きすぎた世の中のようで、味気ないことこの上もないでしょう。
 兼好はそういう世界を夢見て書いているのでは決してないでしょう。
 みなさん、そういう話し方はしないようにしましょうと語りかけているのではありません。いくら言ってみても、そうする人はいるのですから。

 彼は、こういう人がいて、全く困ったものですと言っているだけです。だが、実はそういう人がいてこそおもしろいのですし、兼好も面白がって書いているに違いないというところが大切だと思います。

 前の段の言葉を使っていえば、世の中は、「よからぬ人」ばかりでも困りますが、「よき人」だけだったら、どんなにつまらないことでしょうか。もし仮にそのどちらかでしかないとしたら、ひょっとして、「よからぬ人」だけである方が、まだいくらかましかも知れないという気もしなくはありません。
 
 世の中にはこういう点で「自己批判を欠いた人」の方が一般であって、ここでは、その人の周囲でその「したりげな」話に感じ入っている人もいるわけです。

 そして、その人達に混じって、ひとり「かたはらいたく」思って苦々しげな兼好の孤独な姿を思い浮かべると、これもまた大変だろうと、滑稽に思われます。

《原文》
 人のかたり出でたる歌物語の、歌のわろきこそ本意なけれ。すこしその道知らん人は、いみじと思ひては語らじ。
 すべていとも知らぬ道の物がたりしたる、かたはらいたく聞きにくし。


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第五十六段「久しく隔たりてあひたる人の」

 こういう段を読んで、なるほど、人と話す時はこういうことに気を付けなければならないのだな、いいことを教えられた、などと思わないことが、『徒然草』をおもしろく読む上では肝心です。
 兼好はここで決して「正しい会話の仕方」などを説こうとしているのではありません。『徒然草』は教訓集やマニュアル本ではないのです。

 おそらく彼は「君子の交わりは淡きこと水の如し」という、彼の好きな『荘子』の山木編にある考え方をベースにして書いています。

 つまり、ここでも彼は、彼の美学をかたっているのです。だから、「品のほどはかられぬべき」と彼が書く時、その「品」も言わば荘子的「品」であるわけです。
 誰もが同じように水のような交わりを求める必要はないのです。

 例えば「人あまたあれど、一人に向きていふ」のが「よき人」だと言っていますが、周りの人の受け取り方によっては、満座の中で二人だけで話し合うのはマナー違反だとも言えるでしょう。
 また「興なき事を言ひてもよく笑ふ」のはよくないと言っていますが、しかし人が興のあることだと思って話したのに対して、自分が「興なき事」だと思ったからといって、顔を背けているのは決して褒められたことではありません。

 ここでは、読者は、兼好が示した「つぎざまの人」「よき人」「よからぬ人」というそれぞれの段階の人々が、彼の筆の一刷毛でいかに見事に描かれているかを楽しみ、また、そういう人たちをこういう目で眺めている兼好の気むずかしい目つきを思い描いてみてこそ、ここを読んだ甲斐があるのだと、私は思います。

 私は、先の二つの反対意見にもかかわらず、兼好が描いた初めの人は確かに「よき人」のように思われ、後の人は「品のほどはかられぬべき」という気がします。
 「息もつぎあへず語り興ずる」とか「己が身をひきかけていひ出たる」などを読むと、ああ、確かにこういう人がいるよなあ、とおもしろく思い描き、笑ってしまいます。

 そしてそういうふうに読んでおくと、実際の人との対話で相手が「つぎざまの人」や「よからぬ人」の話し方をしても、変に苛立ったりしないで、ああ、あの話し方だとおもしろく聞かれるというものです。

 人には、いろいろな人がいます。いろいろいるから世の中がおもしろいのです。
 この段で兼好が付けた序列も、きっとたまたまそういう言い方をしたというだけのことで、彼も、こんな人がいて参ってしまうよとニヤニヤしながら書いているのだと思います。

 この段は、教訓としてではなく、人というものを理解する上で、大変解りやすい話なのです。

《原文》
 久しく隔たりて逢ひたる人の、わが方にありつる事、數々に殘りなく語り續くるこそあいなけれ。隔てなく馴れぬる人も、程経て見るは、恥しからぬかは。次ざまの人は、あからさまに立ち出でても、今日ありつる事とて、息もつぎあへず語り興ずるぞかし。よき人の物語するは、人あまたあれど、一人に向きて言ふを、自ら人も聽くにこそあれ。よからぬ人は、誰ともなく、數多(あまた)の中にうち出でて、見る事のやうに語りなせば、皆同じく笑ひのゝしる、いとらうがはし。をかしき事をいひてもいたく興ぜぬと、興なき事をいひてもよく笑ふにぞ、品のほどはかられぬべき。
 人の見ざまのよしあし、才ある人はその事など定めあへるに、おのが身にひきかけていひ出でたる、いとわびし。





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