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第五十段「応長のころ、伊勢国より、女の鬼になりたるを」

 この段は、奇譚にまつわって、これまでのように個人ではなく、人間の群集としての心理がおもしろく活写されています。
 人は、集団になった時、しばしば個人でいる時とは大変に異なった行動・態度を見せます。

 『全訳注』が、兼好は「噂を作り、それに熱中する人間に計り知れぬ興味を覚えた」のだと言っていますが、このように人間をマスとして捉えた話は、第四十六段、この次の第五十一段などがあります。

 たまたま挙げたこの三つの話はそれぞれ人が集団となった時に現す全く違う面を描いていて、興味深いものがあります。

 それにしても、「はやく跡なき事にはあらざめりとて、人をやりて見するに」とあるのは、この兼好にしてから、「鬼」という存在を半ばは信じかけていたのかと、驚かされます。
 してみれば、一般の人々については推して知るべしで、妖怪変化も現代のホラー感覚ではなくて、人間の暮らしのすぐ隣にかなり現実的に住むと意識されたもの達だったのではないでしょうか。

 『集成』がこの時代について、「応長といえば、…新時代の到来を思わせる異様な活気と、鎌倉的体制の終末を予感させる不安な気持ちとが交錯していた時代である。」と書いていますが、それとあわせて思い遣ると、この鬼の話も、現在の私たちが一般に思い描く単にばかばかしい騒動だったというのではなく、もっと現実的で生々しい不安や恐怖を感じてのものだったのではないかと思われます。

《原文》
 應長のころ、伊勢の國より、女の鬼になりたるを率て上りたりといふ事ありて、その頃二十日ばかり、日ごとに、京・白川の人、鬼見にとて出で惑ふ。「昨日は西園寺に參りたりし、今日は院へ参るべし。たゞ今はそこそこに」など云ひあへり。まさしく見たりといふ人もなく、虚言(そらごと)といふ人もなし。上下(かみしも)たゞ鬼の事のみいひやまず。
 その頃、東山より、安居院(あぐゐ)の邊へまかり侍りしに、四條より上(かみ)さまの人、みな北をさして走る。「一條室町に鬼あり」とのゝしり合へり。今出川の邊より見やれば、院の御棧敷のあたり、更に通り得べうもあらず立ちこみたり。はやく跡なき事にはあらざんめりとて、人をやりて見するに、大方逢へるものなし。暮るゝまでかく立ちさわぎて、はては鬪諍(とうそう)おこりて、あさましきことどもありけり。
 そのころおしなべて、二日三日人のわづらふこと侍りしをぞ、「かの鬼の虚言は、この兆(しるし)を示すなりけり」といふ人も侍りし。
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第四十九段「老来たりて、始めて道を行ぜんと待つことなかれ」

 第三十八段の諸縁放下の主張の続きということになります。

 しかし、私にはこの段の前半の主張と後半の二人の聖の話はいささかアンバランスに感じられます。主張の大まじめさに比して、後半の聖のエピソードはいかにも子供じみて滑稽です。

 これから後、なお兼好はこの前半のような主張を幾度かこの作品に書きますし、諸注の多くはそれらをもって彼がいかにも徹底した世捨て人であり、求道者であるかのごとくに評しているように思われます。
 その一例を『全注釈』のこの段の解説から抜き出してみます。

《第二段落は、無常(死)の到来の真の自覚とその保持こそ仏道精進の原動力だというにある。これは言うまでもなく、兼好自身の内証し、経験した上での立言であろう。彼はここでは、問題を自己と内証の上に展開して、「さらば、などか、この世の濁りも薄く、仏道を勤むる心もまめやかならざらん」と言い切っているのである。》

 しかしそういう心境は、兼好にとって、あるいは憧れではあったかも知れないにしても、実際の生活は決してそれを一途に求めたというようなものではなかったようですし、現実に『徒然草』という極めて人間くさい書物も書きつづったわけですから、あまり大上段に、これをもって兼好の心底からの主張と考えるのは適当ではないと思います。

 小林秀雄が『平家物語』で書いた「平家の冒頭のあの今様風の哀調が、多くの人を誤らせた。…平家の作者達の厭人も厭世もない詩魂から見れば、当時の無常の思想の如きは、時代の果敢ない意匠に過ぎぬ」という言葉は、『徒然草』にも当てはまるのではないでしょうか。

 この段についても、後半に挙げられる二人の僧の「耳をふたぎて念仏して」とか「常はうづくまりてのみぞありける」というような行動は、大まじめで一途であることは間違いありませんが、どうも子供じみて滑稽です。

 それは、前半の「命終に際して、過去の修行の怠慢を後悔しても仕方ないことが、実感をこめて述べられている」(『全注釈』)、「強く激した語調で書かれている」(『全訳注』)というような調子とは随分趣が違います。
 例えば、同列に並べようというのではありませんが、鷗外が『寒山拾得』で描いた脱俗の姿とは全く異なっています。
 ここも、第四十五段の良覚僧正に通じる、常人には奇行と思える振る舞いに対する関心の方が先にあったと考えるほうが、『徒然草』を、はるかにおもしろく読めると思います。

 ギリシャの哲学者デイオゲネスは、彼が何を考えていたかということよりも、樽の中に住んでいたことで名高いのですが、この二人の僧についても同じ事が言えそうです。

《原文》
 老來りて、始めて道を行ぜんと待つ事勿れ。古き墳(つか)、多くはこれ少年の人なり。はからざるに病をうけて、忽ちにこの世を去らんとする時にこそ、はじめて過ぎぬる方のあやまれる事は知らるなれ。誤りといふは、他の事にあらず、速かにすべき事を緩くし、緩くすべきことを急ぎて、過ぎにしことの悔しきなり。その時悔ゆとも、甲斐あらんや。
 人はたゞ、無常の身に迫りぬる事を心にひしとかけて、束の間も忘るまじきなり。さらば、などか、此の世の濁りもうすく、佛道を勤むる心もまめやかならざらん。
 「昔ありける聖は、人来たりて自他の要事をいふとき、答へて云はく、『今、火急の事ありて、既に朝夕(ちょうせき)にせまれり』とて、耳をふたぎて念佛して、終に往生を遂げけり」と、禪林の十因に侍(はべ)り。心戒といひける聖は、餘りにこの世のかりそめなることを思ひて、靜かについゐける事だになく、常はうづくまりてのみぞありける。
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第四十八段「光親卿、院の最勝講奉行してさぶらひけるを、御前へ召されて」

 このところ、四十と四十二、四十三と四十四、四十五と四十六、四十七と四十八段と、二つずつ似たような趣旨の話が組み合わさって続いています。「生のバリエーション」の展開と言えるでしょう。

 これも、奇行に見えることが実は意味のあることだった、という話のようです。

 後鳥羽上皇が仏事を催された際に「奉行」した光親卿という人が、上皇から食事を出されたとき、それをきたなく食べ散らして終わった膳部を上皇の御簾の中に返して退出したのを居合わせた女房たちが見て呆れていると、上皇が「有職のふるまい」と称讃されたという話です。

 『全注釈』によれば、食事のマナーとして食べ散らかすのはよくないというのは、当時もそうだったようです。と同時に、上皇から頂いた食事が終わった時に陪膳の者がいない場合は、自分で始末したりしないで「本ノ方ヘ返トナム」(本のところ、この場合は上皇の所へ返す、)というしきたりもあったようです。

 食べ残しの多い膳はとりわけきたなく見えるものですが、光親卿には、何かの事情で頂いた食事をやむなくきたなく食い散らしてしまった(例えば、担当する奉行の用務の急用で食べかけのまま途中で切り上げなくてはならなくなった)膳部をどう処置するかという問題が生じたのではないでしょうか。

 きたない膳部をあえて上皇の御簾の中にお返しするという心情的非礼と、しきたりを破るという公的な非礼との選択を迫られることになった光親卿は、私情を捨てて公的な場での公人としての振るまいを通したということになるわけです。

 上皇の称讃は有職をよく心得ていたということと合わせて、公人としての潔さも称えたものと言えるように思います。
 そして、そういう光親卿の「やんごとな」さもさることながら、それを認めた上皇の度量の大きさもまた見事といえる話だと思います。

《原文》
 光親卿、院の最勝講奉行してさぶらひけるを、御前へ召されて、供御をいだされて食はせられけり。さて食ひ散らしたる衝重(ついがさね)を、御簾の中へさし入れてまかり出でにけり。女房、「あな汚な。誰に取れとてか」など申しあはれければ、「有職のふるまひ、やんごとなき事なり」とかへすがえす感ぜさせ給ひけるとぞ。
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第四十七段「ある人、清水へ参りけるに、老いたる尼の行きつれたりけるが」

 文中「たびたび問はれて、うち腹たちて」という一節が効果的で、この尼の思いの一途さをよく表していると思います。
 奇行の中に見える乳母としての愚かしくも一途な切ない情愛が描かれていて、『全訳注』の解説が意を尽くしています。

 《尼にとってほとんど唯一の生き甲斐であった「養い君」が、女人禁制とされた比叡山に行ってしまった衝撃、再会がかなわぬために内攻する情愛、その表現として彼女が「老い」るまで無限にくりかえされた呪文、人にあやしまれても少しも意に介さないひたむきな献身、それを知らずに山上の僧団の中で少青年期を過ごして行った「養い君」の単調な日々。そんな様々な情景が、わずか一文にすぎない簡潔な描写から空想されよう。》

 ここで「有り難き志」の「志」を『全注釈』の訳のように具体的な「親切心」と読んではならないので、やはり『全訳注』の「肉親・夫婦、またはそれに類するものに対する情愛」と根本的なものに考えるべきです。

 しかし、同書がその「有り難き志」の語釈に「好意から出た軽い揶揄の念か」と書き加えているのは、(もしそれが尼に対する「揶揄」という意味だとすれば、たとえそれが「軽い」ものであっても、)先の評と食い違っているように思われて、頷けません。

 ここに尼に対する「軽い揶揄の念」があると読むか、それとも純粋に殊勝なことだと思ったと取るかは、兼好という人を思い描く上でたいへん大きな違いだと思いますが、兼好は、こういう庶民の素朴な心を込めた言動には、素直に殊勝なことだと思う人だと思います。

 同類の話を求めるとすれば、例えば第百十五段の「ぼろぼろ」の決闘の話が近く、身分卑しい者の死闘は何とでも評することができそうですが、兼好は「いさぎよく覚えて」と讃える言葉だけで終わっています。
 また第百四十二段の「荒夷」の言葉に感心した話もそれに近いものと言えるでしょう。

《原文》

 ある人清水へ参りけるに、老いたる尼の行きつれたりけるが、道すがら、「嚔(くさめ)嚔」といひもて行きければ、「尼御前(あまごぜ)何事をかくは宣(のたま)ふぞ」と問ひけれども、答へもせず、猶(なお)言ひ止まざりけるを、度々問はれて、うち腹だちて、「やゝ、鼻ひたる(くしゃみをする)時、かく呪(まじな)はねば死ぬるなりと申せば、養ひ君の、比叡の山に兒にておはしますが、たゞ今もや鼻ひ給はむと思へば、かく申すぞかし」といひけり。
 有り難き志なりけんかし。
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第四十六段「柳原の辺に、強盗法印と号する僧ありけり。」

 冒頭に続いて「たびたび強盗にあひたるゆえに、この名をつけにけるとぞ。」とあって全文です。

 最初に強盗法印と聞いて、読む者は強盗をする法印の話だろうと思いますが、実はこれは逆に強盗の被害を受けた法印だったということがわかって、まず意表を突かれます。

 ついで「たびたび」強盗にあったということ自体が、他人事なので滑稽です。
 
 それをまた、気の毒がらずに「強盗法印」と渾名することも、「傍観者の利己主義」で冷たく、また滑稽です。

 そして最後に、「法印」という僧位の最高の呼び方も、この僧の本当の位ではなかったと考えるのが一般のようで(そう言われて読み直してみると、最初の紹介も「強盗法印と号する僧ありけり」となっています)、「強盗にあうことが最上位の僧の意味で呼んだ」(『全注釈』)とすると、これが最大の揶揄だということになり、その利己主義も極まるというものです。


 普段、よほど尊大な人だったのかも知れません。

 ともあれ、前の話は僧正が、そしてこちらは傍観者が主人公の話ということになります。

《原文》
 柳原の邊(ほとり)に、強盜法印(ごうとうほういん)と号する僧ありけり。度々(たびたび)強盜にあひたる故に、この名をつけにけるとぞ。
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