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第二百三十段

 最後の「未練の狐、ばけ損じけるにこそ」は誰の言葉でしょうか、

 藤大納言の言葉とも考えられなくはありませんが、やはり『全注釈』のように兼好の感想と考える方が自然でしょう。

 そうだとすると、一体こういう話を兼好はどのくらい本気で書いたのでしょうか。

 そもそもこの時代、狐が人に化けるということは、どのくらい本気で信じられていたものでしょうか。

 この段について言えば、未熟の狐がいたなどと書くのは、本気のようにも思われますが、一方、全くの冗談のようにも読むこともできます。

 何度も挙げますが、第五十段の鬼の話、八十九段の猫またの話が思い出されます。
 鬼の方は一度は半信半疑だったにしても、結局「虚言」と言い切っていますし、「猫また」はあきれた粗忽者の笑い話でした。

 やはりそういうものの存在は、それほど本気で考えられていたわけではないように思われます。

 そう考えると、この末尾の一文は、やはり冗談だと考える方がよさそうに思えてきます。

 牛が浜床に上がっていたりする(第二百六段)時代ですから、宮中に狐が迷い込んで部屋を覗くくらいのことはあったでしょう。
 藤大納言は、単にそのことを言っただけで、それを兼好が「妖物」に仕立て上げたのではないでしょうか。

《原文》
五條の内裏には妖物ありけり。藤大納言殿 語られ侍りしは、殿上人ども、黑戸にて碁を打ちけるに、御簾をかゝげて見る者あり。「誰(た)そ」と見向きたれば、狐、人のやうについゐて、さしのぞきたるを、「あれ狐よ」ととよまれて、まどひ逃げにけり。未練の狐、化け損じけるにこそ。
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第二百二十九段

 うっかり読むと「弘法、筆を選ばず」という話のように見えますが、もちろん全くそうではありません。

 『全注釈』が「ただ『鈍き刀』ではなく、『少し鈍き刀』と限定している所に、彼の確かな把握がうかがわれる。…『よき細工』は、彫刻上の必然的要求として『少し鈍き刀を使ふ』ことに兼好は心を惹かれて、かく記したのであると思う」と書いているとおりです。

 小林秀雄が「彼は利き過ぎる腕と鈍い刀の必要とを痛感してゐる自分の事を言ってゐるのである」(『無常といふ事』)と書いたのも、そのことをふまえて言っているのだと思います。

 そして小林はその文章を「徒然なる心がどんなに澤山な事を感じ、どんなに澤山な事を言はずにがまんしたか。」と結んでいますが、同じことが「彫刻上の必然」として妙観にもあったことでしょう。

 「利き過ぎる腕」が彫る木の上を滑っていかぬように、言い換えれば腕と刀だけで仏像を彫り出すというようなことにならないように、「少し鈍き刀」を使ったのです。

 それによって、「腕」は立ち止まり滞ります。
 そこで「よき細工」は木を見つめることになり、妙観その人と木との格闘、木との交感が生まれる、といったようなことでしょうか。

《原文》
よき細工は、少し鈍き刀をつかふといふ。妙觀が刀はいたく立たず。
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第二百二十八段

 前の段と同様に、書いた意図がよく分からない段です。

 単に自分の心覚えだったのではないか、とも思えますが、特に新しい情報ということでもなく以前から承知していたことのようなので、それもちょっと変です。

 『全訳注』が千本釈迦堂は兼好馴染みの場所であり、その寺で行われるの行事の由来が忘れられていることを愛惜して書いたのだろうとしていますが、それならもう少しいろいろ書くことがあったのではないかという気がします。

 その『全訳注』には、この段は「底本や常縁本は改行して書かれておらず、独立章段として扱われていないようである。その待遇が無理ないと思われるほどの短さである」とあります。

 たしかに前の段の末尾に置いてみると、独立させるより収まりがよく思われます。

 やはり、一つの記録として残すという意図があったのでしょうか。
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《原文》
 千本の釋迦念佛は、文永のころ、如輪上人、これを始められけり。
第二百二十七段

 浄土門の人が日に六回唱える阿弥陀仏礼拝賛嘆の言葉の起源を語ったものですが、兼好がどうしてこれを書いたのかということが気になります。

 『全注釈』によればこの内容は例によって必ずしも確証のある話ではないようですが、兼好がこう書いたということは、①世間に別の説があったか、②世間的にはあまり知られていないことだと彼が考えたか、③あるいは彼自身にとって新知識だったかの、いずれかだということになります。

 ①ならその別の説を書くでしょうし、②なら何か枕がありそうです。

 何もなしにいきなりこのことだけを書いているということは、③だったと考えるのが普通だという気がします。

 やはり、兼好のメモに過ぎないのではないでしょうか。

 正徹本には「是もみせけち也」と注記があるそうです。

《原文》
六時禮讃は、法然上人の弟子、安樂といひける僧、經文を集めて作りて勤めにしけり。その後太秦の善觀房といふ僧、節博士(ふしはかせ)を定めて、聲明になせり。「一念の念佛」の最初なり。後嵯峨院の御代より始まれり。法事讚も、同じく善觀房はじめたるなり。
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第二百二十六段

 落語の八代目桂文楽を思い出しました。
 彼は名人でしたが、高座で噺の登場人物の名前が思い出せなくなって、「勉強し直して参ります」と途中でやめてひっこみ、そのままついに二度と高座に出なかったと言われます。

 ついうっかりしたミスだったのでしょうが、それを自分でどう捉えるかは、その人の生涯を決します。
 自負するところのある人ほど、大きな失敗と思うことになるわけで、そういう意味では、「五徳の冠者」は名誉の名前とも言えますが、当人にとってはつらい名前だったでしょう。

 後段落については「『平家物語』の成立についてしるした最古の文献」(『新潮日本文学小事典』)なのだそうですが、以後、ここにある行長がその成立に大きな役割を果たしたことは確かなことのようで、兼好の考証としては、大切なものの部類に入ります。

 この部分について『全注釈』が、渥美かをる氏、高木市之助氏の説を引いて、大変に興味ある解説をしています。

 中でもこの段の「この行長入道、平家物語を作りて、生仏といひける盲目に教へて語らせけり。」と「生仏、東国のものにて、武士に問ひ聞きて書かせけり。」との二つの文から、行長と生仏がお互いに自分の承知しているものを相手にぶつけ合って、そこから「語り物」としての『平家物語』ができあがったのだということが知られるという説明に、感動がありました。

 兼好自身としてはそういう意味で書いたところではないでしょうが、心に傷を負った行長と、盲目の法師のやりとりはどのようなものだったでしょうか。

 それは大袈裟に言えば奇跡的・運命的な出会いだったわけで、新しい文学が誕生するダイナミズムが感じられます。

《原文》
後鳥羽院の御時、信濃前司 行長 稽古の譽ありけるが、樂府の御論議の番に召されて、七徳の舞を二つ忘れたりければ、五徳の冠者と異名をつきにけるを、心憂き事にして、學問をすてて遁世したりけるを、慈鎭和尚、一藝ある者をば下部までも召しおきて、不便にせさせ給ひければ、この信濃入道を扶持し給ひけり。
 この行長入道、平家物語を作りて、生佛(しょうぶつ)といひける盲目に教へて語らせけり。さて、山門のことを、殊にゆゝしく書けり。九郎判官の事は委しく知りて書き載せたり。蒲冠者の事は、能く知らざりけるにや、多くの事どもを記しもらせり。武士の事・弓馬のわざは、生佛、東國のものにて、武士に問ひ聞きて書かせけり。かの生佛がうまれつきの聲を、今の琵琶法師は學びたるなり。

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