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第二百二十段

 この段、後の《原文》は初めの言葉の後が「といふ。」とされていますが、手元の本はいずれも「といへば、」となっています。

 「いふ」なら世間一般がそう言うと考えるのが普通で、それでは後の「天王寺の伶人」の話が唐突です。
 「いへば」なら、普通に読めば兼好が言うのでしょうから、それに対する返事として素直に読まれます。

 兼好がこう言ったのだとすると、「兼好が、地方的なものに冷淡だったことを思うと、彼の天王寺の舞楽への尊敬の念がなみなみでないことがうかがわれるが、伶人がそれにおごることなく、淡々と語っているさまがこころよい」(『全訳注』)というつながりになります。

 一方、『全注釈』が、林屋辰三郎の『中世芸能史の研究』に書かれた、当時の「天王寺の伶人」の置かれた立場を紹介していて、大変興味深いものです。

 それによると、天王寺の楽人は中央の楽人に対して卑賤視され、課役を免ぜられて奴隷的境遇にあり、そのように孤立した中で鎌倉期にはすでに大内楽所には失われた曲目を相伝していて、民衆的演出で舞を魅力あるものにしていた、というのです。

 尚古趣味の兼好としては、内裏になくなった曲目がこちらに残されていたという点だけでも、天王寺を称える意味があると思ったでしょう。

 伶人の説明は大変専門的で、これも兼好好みです。
 もっとも、専門家のかみ砕いたその道の話は、兼好に限らず、また何によらず、しばしば興味深く感じられるものだと思います。

 その伶人の、世間的に卑賤視されているという背景の中で「淡々と語っている」態度はどこから生まれたものでしょうか。

 技能上の自信なのでしょうか、それとも世間的達観なのでしょうか。職能人らしい、自立的な生き方が感じられます。

《原文》
「何事も邊土は、卑しく頑(かたくな)なれども、天王寺の舞樂のみ、都に恥ぢず」といふ。天王寺の伶人の申し侍りしは、「當寺の樂は、よく圖をしらべ合せて、物の音のめでたく整ほり侍ること、外よりも勝れたり。ゆゑは太子の御時の圖、今にはべる博士とす。いはゆる六時堂の前の鐘なり。そのこゑ、黄鐘調の最中(もなか)なり。寒暑に從ひて上(あが)り・下(さが)りあるべきゆゑに、二月 涅槃會(ねはんゑ)より聖靈會(しゃうりゃうゑ)までの中間を指南とす。秘藏のことなり。この一調子をもちて、いづれの聲をもとゝのへ侍るなり」と申しき。
 およそ鐘のこゑは黄鐘調なるべし。これ無常の調子、祇園精舍の無常院の聲なり。西園寺の鐘、黄鐘調に鑄らるべしとて、あまたたび鑄替へられけれども、かなはざりけるを、遠國(をんごく)よりたづね出されけり。法金剛院の鐘の聲、また黄鐘調なり。
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第二百十九段

 運動音痴の私ですが、ある時期剣道部の手伝いをしていたことがあります。
 よく言われるように剣道の試合は、部外者には旗判定が主観的に思えて、見ていてもどっちが勝ったのか判らないということがよくあります。それでもある程度見なれてくると、少しずつ判るようになって面白かったものです。
 そこである時、四段だか五段だかという人に、つい「剣道は面白いものですね」と言ったところ、にっこり笑って「やるともっと面白いですよ」と言われて、ひとり恥じ入ったことがあります。
 見ているだけでは、あの阿吽の妙味は解りません、と言われたような気がしたからです。

 この段は前後二段の構成で、前段落は、笙の名手・龍秋が横笛の構造には欠陥があるのではないかという不審を極めて分析的に語り、そのために上手に吹ける人が少ない、と言ったのを四条黄門(この人が横笛についてどれ程の人か解らないので、文意が取りにくいのですが)が、後生畏るべし、と絶賛したという話です。

 直接の専門ではないとは言え、同じ雅楽の名手の言葉でもあり、高い地位の人からのこのくらいのほめ言葉があればおおむねそれで話は終わりそうなもので、私など、なるほどそういうものか、と思ってしまいます。

 ところが後段落では、当の笛の名手・景茂の言葉が出てきて、龍秋の言葉が一蹴されるということになります。

 彼の言うところは、笛というのは、龍秋が問題ありと指摘する「五の穴」だけでなく、どの穴についても「口伝の上に性骨を加えて心を入るる」のであって、上手になればきちんと吹けている、「呂律の物にかなはざるは、人のとがなり、器の失にあらず」なのだ、ということです。

 龍秋の精細な分析を越えて、つまり「五の穴」の構造の問題も含めて横笛はそういう笛なのであり、それによって横笛の横笛たる所以がある(それは例えばトロンボーンを伸縮にしないでピストンにすればもっと正確な音が出しやすくなる、と言うようなものだ…私の勝手な連想です)と言っているようです。

 龍秋という人は、その謙虚な言葉遣いからしていい人なのでしょうから、決して自分の専門である笙の優秀性を語ろうとか、自分の分析力を誇ろうとかいうことではなく、全く彼の感じたままを彼の音楽の素養を通して語ったのでしょう。

 そしてその指摘することは、私には判断できませんが、恐らくその点だけについて言えば確かにそういう点はあるということなのでしょう。

 しかし横笛はそのようであることによって「横笛」であったわけで、仮に龍秋の言う点を改造すれば、それは例えばオフサイドルールのないサッカーのようになるのではないでしょうか。

 世の中に行われているしきたりとか習わし、総じて伝統とはそういう要素を持っているものなのだと、兼好は思ったのかも知れません。

 生かじりの人があれこれ言っても、それ自体が一つの大系を備えて自立して意味を持っているわけです。
 人が作ったものでありながら、人の方からその大系に入っていくことしかないものもたくさんあるのです。

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《原文》
 四條黄門命ぜられて曰く、「龍秋は道にとりてはやんごとなき者なり。先日來りて曰く、『短慮の至り、極めて荒涼の事なれども、横笛の五の穴は、聊か訝(いぶ)かしき所の侍るかと、ひそかにこれを存ず。そのゆゑは、干(かん)の穴は平調、五の穴は下無調なり。その間に勝絶調をへだてたり。上(じゃう)の穴雙調、次に鳧鐘調をおきて、夕(さく)の穴、黄鐘調なり。その次に鸞鏡調をおきて、中の穴盤渉調、中と六との間に神仙調あり。
 かやうに間々にみな一律をぬすめるに、五の穴のみ、上の間に調子をもたずして、しかも間をくばる事ひとしきゆゑに、その聲不快なり。さればこの穴を吹くときは、かならずのく。のけあへぬときは、物にあはず。吹き得る人難し』と申しき。料簡のいたり、まことに興あり。先達後生を恐るといふ事、この事なり」と侍りき。
 他日に景茂が申し侍りしは、「笙は調べおほせてもちたれば、たゞ吹くばかりなり。笛は、吹きながら、息のうちにて、かつ調べもてゆく物なれば、穴ごとに、口傳の上に性骨を加へて心を入るゝ事、五の穴のみにかぎらず。偏にのくとばかりも定むべからず。あしく吹けば、いづれの穴も快からず。上手はいづれをも吹きあはす。呂律のものにかなはざるは、人の咎なり。器(うつわもの)の失にあらず」と申しき。



第二百十八段

 『全訳注』が「はたして、狐のこのような凶行がありうるのかどうか、危ぶまれないでもない」と言っています。

 ネットを開いてみると、Live Door blogに「いぎりすせいかつ」というのがあって、そのJune 21 2010に「都会の狐は危険か」という記事が載っています。

 東ロンドンで双子の赤ちゃんが狐に襲われたとか、三歳の子どもが学校の校庭で狐に噛まれたというニュースが流れたので、この人も不審に思って「狐は人を襲うか」ということをいろいろ調べたり訊ねたりしたところ、イギリスのその道の人は、多く否定的で、結局こちらが狐に危険を感じさせない限り「狐って、猫にさえちょっかい出すことはないそうです」とあります。

 そして先の赤ちゃんや小学生は何か他の事情があったのではないかという結びになっています。

 所変われば、ということもあるでしょうから、一概には言えませんが、何か、第八十九段の猫またの話と同じような落ちがあるのではないかと思われる話です。

 第五十段では、女が鬼になったという話を聞いて、わざわざ確かめに人をやったような兼好ですから、案外こういう話を信じやすい人だったのかも知れません。

 そう言えば、『徒然草』正徹本ではこの段は全体がミセケチとなっているそうです。
 削除すべき内容だと誰かが考えたということなのでしょう。

《原文》
狐は人に食ひつく者なり。堀河殿にて、舍人が寢たる足を狐にくはる。仁和寺にて、夜、本寺の前を通る下法師に、狐三つ飛びかゝりて食ひつきければ、刀を拔きてこれを拒(ふせ)ぐ間、狐二疋を突く。一つはつき殺しぬ。二は遁げぬ。法師はあまた所くはれながら、事故(ことゆえ)なかりけり。
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第二百十七段

 アメリカの富豪カーネギーがある時エレベーターに乗ったところ、そのボーイが「私がもしあなただったら、こういう時はチップをうんとはずむことでしょう」と言ったそうです。
 するとカーネギーは「そんなことだから君はボーイでいるんだよ」と言ったという話を読んだことがあります。 実話でしょうか、小咄なのでしょうか。

 金持ちなどというのは私には縁遠い立場なのでよく解りませんが、この大福長者は、金満家のごく普通の考え方を言っているだけではないでしょうか。

 成金の人は金持ちであることを示したくて、お金を「奴のごとくしてつかひ用ゐる」と言われますが、地に足のついた普通の金持ちは、「君のごとく神のごとくおそれ尊みて」使っているのだろうという気がします。

 面白いところがいくつかあります。
 後の原文に番号を振って、それによって話を進めます。

 まず心得の第一番に①「人間常住の思ひに住して、かりにも無常を観ずる事なかれ」を挙げていることです。
 全くもっともで、諸行無常では富を蓄えようなどとはならないわけです。
 逆に言えば、これを一番に言わねばならないほどに無常観は一般的認識だったとも言えるでしょうか。

 しかしこのことにこの後では全く触れないところを見ると、あるいはそうではなくて、この話は兼好との酒の席か何かのもので、まずちょっと兼好の無常観講釈をからかうことを話の枕にしたというようなことなのだろうか、と思ったりします。
 もちろんそうであっても、以下の話は彼なりにまじめなものだとは思いますが。

 次におもしろいのは、④「恥にのぞむといふとも、怒り怨むる事なかれ」と⑤「正直にして、約をかたくすべし」が同居していることです。
 ④はつまり恥を掻くことを恐れるなということで、これが⑤と重なると、⑤の「正直」とは他人に対して、時に大変冷酷なことになりそうです。
 もちろん当人はそんなことは気付いていません。
 おそらく多くの金満家が、一見、好人物の相貌であるように、この人もそうなのでしょう。

 最後に⑥です。
 これが彼の面目躍如の点で、彼にとっては富が溜まっていくこと自体が喜びであるわけです。
 例えば昆虫好きの子どもが虫を採ってきてピンで留めて楽しんでいるように、腕白坊主がベーゴマを溜め込むように、あるいはサッカー少年がゴールの数を競うように、と言ってもいいかも知れません、ともかく、彼はそれ自体は何の役にも立たないお金というものを、ただたくさんに持っているという事実が大切なのです。
 それは無償の行為といってもいいかも知れません。この「大福長者」にとって富は究極の価値であって、それさえあれば「心とこしなへに安く楽し」なのです。
 もっとも、実際の問題としては、その富がどれ程あればそういう心境に至れるかということには、いささか心許ないところはありますが。

 さて、こういう考え方は兼好には理解できません。
 彼は富を⑦のようにしか考えることをしないのです。
 彼にとって究極の価値は出家であるからです。
 ⑧以下は全く強引な解釈で、この長者は決して無欲なのではありません。

 この段は、兼好の解釈以上に「大福長者」の長口舌がおもしろく思われます。

《原文》
ある大福長者の曰く、「人は萬をさしおきて、一向(ひたぶる)に徳をつくべきなり。貧しくては生けるかひなし。富めるのみを人とす。徳をつかむと思はば、すべからくまづその心づかひを修行すべし。その心といふは、他の事にあらず。①人間常住の思ひに住して、假にも無常を觀ずる事なかれ。これ第一の用心なり。
 次に、②萬事の用をかなふべからず。人の世にある、自他につけて所願無量なり。欲に從ひて志を遂げむと思はば、百萬の錢ありといふとも、しばらくも住すべからず。所願は止むときなし。財は盡くる期(ご)あり。かぎりある財をもちて、かぎりなき願ひに從ふこと、得べからず。所願心に兆すことあらば、われを亡すべき惡念きたれりと、かたく愼みおそれて、小用をもなすべからず。
 次に、③錢を奴の如くしてつかひ用ゐるものと知らば、長く貧苦を免るべからず。君の如く神のごとくおそれ尊みて、從へ用ゐることなかれ。
 次に、④恥にのぞむといふとも、怒り怨むる事なかれ。
 次に、⑤正直にして、約をかたくすべし。この義を守りて利をもとめむ人は、富の來ること、火の乾けるに就き、水の下れるに從ふが如くなるべし。⑥錢つもりて盡きざるときは、宴飮聲色を事とせず、居所をかざらず、所願を成ぜざれども、心とこしなへに安く樂し」と申しき。
 ⑦そもそも人は、所願を成ぜむがために財をもとむ。錢を財とする事は、願ひをかなふるが故なり。⑧所願あれどもかなへず、錢あれども用ゐざらんは、全く貧者とおなじ。何をか樂しびとせん。このおきては、たゞ人間の望みを絶ちて、貧を憂ふべからずと聞えたり。
 欲をなして樂しびとせんよりは、しかじ、財なからむには。癰・疽(よう・そ)を病む者、水に洗ひて樂しびとせむよりは、病まざらむには如かじ。こゝに至りては、貧富分くところなし。究竟(くきゃう)は理即にひとし。大欲は無欲に似たり。
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第二百十六段

 前の話が武士集団の打てば響く緊密な関係を垣間見せているのに対して、こちらは大変に和やかで家族的な、そして親密な関係を思わせます。

 入道時頼は義理の叔父に当たる左馬入道義氏が亡くなった時二十八歳だった(『全注釈』)そうで、この出来事はもちろんそれより前、彼が気鋭の若き執権当時のことだろうとされます。

 義氏は「幕府草創前後に生まれ、勲功のあった老将」(『全訳注』)、時頼がそこを訪ねるのですが、「(歓待の)献立は質素であり、引き出物も、亭主の国の特産品に過ぎなかった。その引き出物の催促の仕方は相手への甘えの情と感謝の念をこもごも見せて読むものをなごませるが、それに対する義氏夫妻の心づくしの用意にも好ましいものが感じられる」(同書)というわけです。

 前の段の逸話にみられるような緊張感のある緊密さと、この段のしっくりと馴染み合った緊密さと、彼らの周辺にそういう関係が満ちていた、古きよき時代であったのです。

《原文》
最明寺入道、鶴岡の社參の序(ついで)に、足利左馬入道の許へ、まづ使を遣して、立ちいられたりけるに、あるじまうけられたりける様、一獻に打鮑(うちあわび)、二獻にえび、三獻にかい餅(もちひ)にて止みぬ。その座には、亭主夫婦、隆辨僧正、あるじ方の人にて坐せられけり。さて、「年ごとに賜はる足利の染物、心もとなく候」と申されければ、「用意し候」とて、いろいろの染物三十、前にて女房どもに小袖に調ぜさせて、後につかはされけり。
 その時見たる人の、ちかくまで侍りしが、語り侍りしなり。
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