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第二百段

 この段は、どういう意味で書かれたのか、そしてどういう根拠をもって書かれたのかということが気になる段です。

 当時の貴族たちの間で、この二種類の竹の区別が混乱していたということなのでしょうが、宮廷のことですから、当然専属の庭師のような人がいたはずで、わざわざ兼好が書きとどめる必要もないように思います。

 それともたまたまそういう人に聞いたので、書きとどめたということでしょうか。

 しかし、それなら前の段のように、誰それが言った、と言いそうなものです。

 あるいは兼好自前の知識ということなのでしょうか。

 『全注釈』が「この考証は、後々の書物にも、広く引用されている」としています。
 ということは、案外この兼好の言葉以外の証言は少ないということなのでしょう。

 そうすると、この証言はたいへん大きな意味を持つわけですが、「(兼好の)所説は、この種の段の多くと同様にあやしげ」(『全訳注』第二百二段解説)ということがあるとなると、こう書いたその根拠も大変に気になります。

《原文》
呉竹は葉ほそく、河竹は葉ひろし。御溝(みかわ)にちかきは河竹、仁壽殿(じじゅうでん)の方に寄りて植ゑられたるは呉竹なり。

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第百九十九段

 『徒然草』に音楽の話が出てくるのは大変珍しく、取り上げて書かれるのはこの段だけだと思います。

 もちろん知識人として平均的知識はあったでしょうが、それを越えるものではなかったことを、その頻度が示していると言っていいのではないでしょうか。

 『全注釈』が「行宣法印の言う所は音楽上のことなので、その方面に全くくらいわたくしは、以下、田辺尚雄氏の『日本音楽講話』と山田孝雄氏の『源氏物語の音楽』などによって、本段の趣旨を述べるに止めたいと思う」と大変に謙遜して言っていますが、同書がその後に解説しているほどのことを兼好が承知していたというわけではないように思います。

 この、いかにもあっさりした書き方から考えると、前の段と同様に、たまたま聞いた、後に何か思索のきっかけになるかも知れないことをメモしたという範囲を出ないのではないでしょうか。

《原文》
横川(よがは)の行宣法印が申しはべりしは、「唐土は呂の國なり、律の音(こえ)なし。和國は單律の國にて呂の音なし。」と申しき。

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第百九十八段

 「揚名介」という言葉は、『源氏物語』「夕顔」に出てきて、古来(つまり兼好の時代以前から)、注釈上の問題点であるようです。

 兼好は当然そのことを知っていたからこそ、これを書いたのでしょう。

 もちろん、このあっさりした書き方からして、これもまた必ずしも彼の問題意識としてあったわけではなく、たまたま見つけたことのメモに過ぎないでしょう。

 また、『全訳注』は「錚々たる人々におぼつかながられたことについて、小発見をしたのである」と書いていますが、彼自身は、そういうふうに考えたわけでもないようです。

 全くメモ的な書き方で、「小発見」と思ったとするには、いささか控えめすぎる書き方に思われます。

《原文》
揚名介(ようめいのすけ)に限らず、揚名目(ようめいのさかん)といふものあり。『政事要畧』にあり。
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第百九十七段

 ここから第二百五段まで、今度は少し長く考証的な段が続きます。

 『全訳注』が「兼好にとっては、瑣事ながら気になっていたであろう問題を扱っており、いわば、のどに刺さる小骨を除くような試みである」としていますが、それにしては取り上げられる事柄に一貫性がなくばらばらです。
そういう問題解決的なものではなく、『全注釈』の言うように、「兼好が、古書を閲覧する際に、『延喜式』や『政事要略』を見て、いろいろの事実に気づき、新しい知見を書き留めたもの」と考える方が自然だろうと思われます。

 この段で言えば、あらかじめ「定額」という言葉に問題意識を持っていたのではなく、古書を読んでいて、こんな所にも使うのかと驚いて書き留めたというふうに考えるわけです。

 つまり、前に疑問があってそれを解決する作業をしていたというのではなく、何かの必要のための、あるいは「つれづれ」のすさびの読書の中で、たまたまふと目に触れた興味あることをメモ的に、雑録的に書き留めたものだと思うわけです。

 そう考えると、この日の兼好の読書の時の姿が思われ、生活の一端を思い描くことができるような気がします。

 『徒然草』は意識的に書かれた文学作品ではなく、基本的にそういうものだったと考える方が、書かれた所以が分かりやすいことが多いように思います。

《原文》
諸寺の僧のみにもあらず、定額(ぢゃうがく)の女嬬といふこと、『延喜式』に見えたり。すべて、數さだまりたる公人(くにん)の通號にこそ。
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第百九十六段

 もし初めから久我内大臣のことを二段書こうと思っていたのなら、こちらの話から先に書くのが普通でしょう。

 ということは、前の段はやはり「ある人」の白日夢を書こうとしたのであって、そこから久我内大臣が出てきたので、この段でその人の話に移ったと考える方がいいのではないでしょうか。

 この段の久我内大臣の言葉は痛快で、前の段で「やんごとなき人なり」と言われただけのことがあります。

 第六十六段の「武勝」の貴人版と言えばいいでしょうか。

 『全注釈』には、久我内大臣(通基)の家は前後五代に亘って近衛大将を務めた武門であり、土御門相国(定実)の家は行政の家系であったことが示されています。
 しかも、第百二十八段にもあったように、土御門は定実の父と彼の子の時に大将の職を望んで得られなかったという事情があり、対抗する間柄だったとしています。

 とすると同書が、「『とばかり答へ給ひけり』とあるので、この一言は、寸鉄人を刺すごとき痛烈さがあったに違いない」と言っているのは、全くそのとおりだっただろうと思われます。

 その対抗関係が二人の間でスパークした、その一瞬であったわけです。
 後段の通基が後に言ったという言葉は、「実に冷静、かつ慎重」(同書)というより、見事に一本取った余裕の発言という気がします。

《原文》
東大寺の神輿(しんよ)、東寺の若宮より歸座のとき、源氏の公卿參られけるに、この殿、大將にて、先を追はれけるを、土御門相國、「社頭にて警蹕(けいひつ)いかゞはべるべからん」と申されければ、「隨身のふるまひは、兵仗の家が知る事に候。」とばかり答へ給ひけり。
 さて、後に仰せられけるは、「この相國、『北山抄』を見て、西宮(せいきう)の説をこそ知られざりけれ。眷属の惡鬼・惡神を恐るゝゆゑに、神社にて、殊に先を追ふべき理あり」とぞ仰せられける。

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