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第二十段「なにがしとかやいひし、世捨人の」

 諸注の言うように、前の段の末尾にある「年のなごり」「空のけしき」という言葉から連想した話だと思われます。

 「空のなごり」という言葉には諸説があるようですが、それはともあれいかにも詩的です。空は人に様々な物思いをさせます。

 「名残」は『岩波古語辞典』によれば「波のひいたのち、なおも残るもの。さらに、あることの過ぎ去ったのちまでも尾を引く物事や感情の意」ということです。

 それに加えるように『全訳注』が、「この空が静的な相でとらえられているのではないことに留意したい」として「時刻の推移、季節の移ろいなどを意識するときの抒情的な気分がこめられており、観照する者の状況の変化による思い入れによって、その空の情景は深い情趣をたたえるはずである」としているのは、まことに納得できる解説です。

 そう言えば前段の「年の名残も心ぼそけれ」も、行く年を惜しみ、そこに記し残してきた足跡が引き起こす様々な感慨を言い、そしてその年があとわずかで閉じてしまおうとしていることへの切なさを言っていたのでした。

 この世捨て人は、「この世のほだし持たらぬ身」だと言うのですから、多くのものを捨ててきたのでしょう。そしてその結果今や「空のなごり」だけが彼にこの世を捨てさせてくれない「ほだし」になっているというわけです。

 しかし彼はそれを、「世捨人」としては困ったことだと思いながら、実はその最後の「ほだし」を断ち切りたいとは思っていません。むしろそういう自分の思いを切なく胸に温めているのです。

 そして兼好は、その世捨て人の、日ごろそういう空を眺め友として暮らし、そこに生まれる「尾を引く」様々な物思いに心を騒がせている姿に、共感しているのです。
 段末の「さも覚えぬべけれ」については、第五段で触れました。

 第八十四段に同様の切ない話が書かれています。

《原文》
 某(なにがし)とかやいひし世すて人の、「この世のほだし もたらぬ身に、たゞ空のなごりのみぞ惜しき。」と言ひしこそ、まことにさも覺えぬべけれ。
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第十九段「折節の移りかはるこそ、ものごとにあはれなれ。」

 この冒頭の一文について『全訳注』が「ここの文意は、四季に美しい風物があるというのではなく、季節の変移、展開そのものが『あはれ』なのだということ」だと言っているのは、当然ながら重要です。

 第十段で少し触れましたが、例えば『枕草子』の魅力は一瞬の感動を的確にカットとして切り取り、鮮やかに描いて見せてくれることです。
 『枕草子』の季節感と言えば、名高いその第一段もそうですが、私はその最も見事なのは第二百六段だと思います。
 そこでは草の下水の跳ね上がり、木の枝の「ふと過ぎてはずれたる」、蓬のふと香った香りという、その瞬間を逃せば消えて無くなる、夏らしいさわやかな一瞬を見事に捉えていて、野歩きに解放された女房たちのはしゃぐ声さえ聞こえてきそうです。

 しかしこの第十九段では、もちろん四季折々に多くの興趣ある固定的な風物・場面も切り取られて語られはしますが、それだけではなく、流れていく時の移ろいそのものが「あはれ」を感じさせるものとして取り上げられている、いくつかの叙述があります。

 まず春の「鳥の声などもことのほか春めきて~よろづにただ心をのみぞ悩ます」です。

 この中で「青葉になりゆくまで」を、『全注釈』は「木々が青葉になるまで」としていますが、それでは「青葉」は木一般ということになり、「心をのみぞ悩ます」ということになりません。
 『全訳注』のように、やはり「葉桜になるまで」と読むべきです。

 ここは「鳥の声」からずっと桜を意識しての春の風物が語られているのであって、春の気配が立つ頃から今年の桜はどうであろうかと気をもみ続けてきて、その桜が「心あわたたしく散り過ぎ」るからこそ「心をのみぞ悩ます」となるのです。
 そしてその時間の経過を気をもみ続けていることを「あはれ」だと言っているのだと思います。

 夏の部分にも「灌仏のころ、祭のころ、若葉の梢涼しげに茂りゆくほどこそ、世のあはれも人の恋しさもまされ」とあって、この「茂りゆく」もまた、時間の経過の中での感慨です。

 冬にはまず「追儺より四方拝につづくこそおもしろけれ」とあります。追儺は賑やかな儀式で、四方拝は静粛のうちに厳かに行われるものであり(『全訳注』)、また追儺が終わると、すぐ四方拝の支度に移った(『集成』)ようで、その動と静の変化がそのまま年の交代になっていることを面白く感じたのでしょう。
 
 続く「つごもりの夜~音なくなりぬる」も同様に動から静へのデクレセンドといった変化に流れ去る年を感じて「心ぼそけれ」と思うことになるのだと思われます。

 そして段末の新年の叙述もまた、大晦日の昨日を残像として意識の中に置いて「明け行く」空の様子を語ることになります。

 このように「移りかはる」こと、変化するその事自体に興趣を感じるというのは王朝にはなかった発想ではないでしょうか。

 そこでは変化は、はかなさ、たよりなさにつながる負の感覚だったように思われますが、その後の社会の激変を経た中世の人にとって変化はすでに当たり前のもの、むしろ変化こそが物事の実態だとして捉えられるようになり、物事の興趣もまたそこにあると感じられるに至っていたということであろうと思います。

《原文》
 折節の移り変わるこそ、物ごとに哀れなれ。
 「物の哀れは秋こそまされ」と、人ごとに言ふめれど、それも然(さ)るものにて、今一きは心も浮きたつものは、春の景色にこそあめれ。鳥の聲などもことの外に春めきて、のどやかなる日かげに、垣根の草萌え出づる頃より、やゝ春ふかく霞みわたりて、花もやうやう氣色(けしき)だつほどこそあれ、折しも雨風うちつゞきて、心あわたゞしく散りすぎぬ。青葉になり行くまで、萬(よろづ)にただ心をのみぞ悩ます。花橘は名にこそおへれ、なほ、梅の匂ひにぞ、いにしへの事も立ちかへり戀しう思ひ出でらるゝ。山吹の清げに、藤のおぼつかなき樣したる、すべて、思ひすて難きこと多し。
 「灌佛のころ、祭のころ、若葉の梢 涼しげに繁りゆくほどこそ、世のあはれも、人の戀しさもまされ」と、人の仰せられしこそ、げにさるものなれ。:五月(さつき)、あやめ葺くころ、早苗とるころ、水鷄(くいな)のたゝくなど、心ぼそからぬかは。六月(みなづき)の頃、あやしき家に夕顔の白く見えて、蚊遣火ふすぶるもあはれなり。六月祓またをかし。
 七夕祭るこそなまめかしけれ。やうやう夜寒になるほど、鴈なきて來る頃、萩の下葉色づくほど、早稻田(わさだ)刈りほすなど、とり集めたることは秋のみぞおほかる。また野分の朝こそをかしけれ。言ひつゞくれば、みな源氏物語、枕草紙などに事ふりにたれど、同じ事、また、今更にいはじとにもあらず。おぼしき事云はぬは腹ふくるゝわざなれば、筆にまかせつゝ、あぢきなきすさびにて、かつ破(や)り捨つべきものなれば、人の見るべきにもあらず。
 さて冬枯の景色こそ、秋にはをさをさ劣るまじけれ。汀(みぎわ)の草に紅葉のちりとゞまりて、霜いと白う置ける朝、遣水より煙のたつこそをかしけれ。年の暮れはてて、人ごとに急ぎあへる頃ぞ、またなくあはれなる。すさまじき物にして見る人もなき月の寒けく澄める、二十日あまりの空こそ、心ぼそきものなれ。御佛名(おぶつみゃう)・荷前(のさき)の使立つなどぞ、哀れにやんごとなき、公事ども繁く、春のいそぎにとり重ねて催し行はるゝ樣ぞ、いみじきや。追儺(ついな)より四方拜につゞくこそ、面白ろけれ。晦日(つごもり)の夜、いたう暗きに、松どもともして、夜半(よなか)すぐるまで、人の門叩き走りありきて、何事にかあらん、ことことしくのゝしりて、足を空にまどふが、曉がたより、さすがに音なくなりぬるこそ、年のなごりも心細けれ。亡き人のくる夜とて魂まつるわざは、このごろ都には無きを、東の方には、猶(なお)することにてありしこそ、あはれなりしか。
 かくて明けゆく空の気色(けしき)、昨日に變りたりとは見えねど、ひきかへ珍しき心地ぞする。大路のさま、松立てわたして、花やかにうれしげなるこそ、また哀れなれ。
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第十八段「人は、おのれをつづまやかにし、奢りを退けて、財をもたず、世をむさぼらざらんぞ、いみじかるべき」

 中国の許由という人のエピソードがすばらしく、屈指の一段です。

 一応は清貧を説いた段で、『全訳注』は、兼好に先行する隠者の作品がすでに「言葉の限りを尽くして富の不毛・危険、清貧・簡素の徳を説き続けた」のであって「この段が付け加えるものは少ない」としています。

 しかしこの段が私たちに与える感銘は、そういう「主題」によってではありません。
 それを『全注釈』は次のように言います。

  第一段落(初めの二文)こそ、許由を描き出すための前提であり、序であると考えなくてはなるまい。
 …『作品研究つれづれ草』に言われているように、この段の主題は、許由の無一物境に対する感嘆にあると考え る他はない。
  そこに、この段の、単なる道徳的教訓の域を脱した、許由への感動を主題とする、文学的完成を認めなくては ならない。
 
 私たちがこの段を読んで心を動かされるのは、確かに清貧の素晴らしさというような抽象的なテーマではなくて、許由という具体的な人物像によってです。

 そしてその要点は、出典の『蒙求』で「風吹けば瀝々として声有り。由以て煩しと為し遂に之を捨つ。」とあるところを、兼好は「風に吹かれて鳴りけるを、かしかましとて捨てつ」としたという一点にあると思われます。
 
 この瓢箪を捨てた理由が、兼好の中の許由という人物を作り出しています。
 「煩し」を「かしかまし」としたことによって、許由の瓢箪を捨てたのが、いたって単純で些細な理由によるものだったことが明確になります。「煩わし」といっても、彼は腹を立てたり気分を害したりして捨てたのではなく、単純にやかましいと思ったその時に、そのことだけのために、あっさりと捨てたのだと兼好は考えました。
 その時許由は、わざわざ人がくれた物だ、などということは毛ほども考えません。

 そのあまりの恬淡とした態度に読む者は気が抜けるような気がして、思わず笑ってしまうではありませんか。

 「いかばかり心のうち涼しかりけん」は、捨てたことに対する思いでもなく、捨てたことによって生じた思いでもなく、実はもともと「涼し」かったのであって、たまたま一時瓢箪の音によって乱されたにすぎません。

 そういう許由を兼好はかくあるべしと感じているのであって、文章もそれに相応しく簡潔明解です。

 もちろん、だからといって兼好が許由のようになれたというわけではないことは、前段での『古典』の語るところです。

《原文》
 人は己をつゞまやかにし、奢(おご)りを退けて、財(たから)を有(も)たず、世を貪(むさぼ)らざらんぞ、いみじかるべき。昔より、賢き人の富めるは稀なり。
 唐土(もろこし)に許由(きょゆう)といひつる人は、更に身に隨へる貯へもなくて、水をも手して捧げて飮みけるを見て、なりひさご(瓢)といふ物を人の得させたりければ、ある時、木の枝にかけたりければ、風に吹かれて鳴りけるを、かしかましとて捨てつ。また手に掬(むす)びてぞ水も飮みける。いかばかり心の中(うち)涼しかりけん。孫晨(そんしん)は冬の月に衾(ふすま)なくて、藁一束(わらひとつかね)ありけるを、夕にはこれに臥し、朝にはをさめけり。
 唐土の人は、これをいみじと思へばこそ、記しとゞめて世にも傳へけめ、これらの人は、語りも傳ふべからず。
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第十七段「山寺にかきこもりて、仏に仕うまつるこそ、つれづれもなく」

 同じく超俗的世界への解放が語られます。もっとも、「山寺にかきこもり」と言っても、ここは仏道修行といった修養的意味を持った関心ではなく、神楽の世界を楽しむのと同じように、言わば「山寺」という空間を、自分の住み処とは異質の世界として思い描き、ひととき楽しんでいるように思われます。

 もし兼好がここに書いたような境地を得ていたなら、『徒然草』は書かれなかったわけです。
 
 私たちにとってさいわいなことに、結局兼好は「山寺にかきこもり、仏に仕うまつる」ということに徹することをしませんでした。

 『古典』はその事情を次のように書いています。

  けだし、「山寺にかきこもりて仏に仕うまつる」ことにも、やがて倦きるときがくる。無理は祟るものであ  る。
  ひじり顔して、懈怠の日常を掩い隠す偽善をのがれるには、山を下りて里の俗界に引き返すがよかろう。
  無常の一点につり下げられた振子の運動にひとしい「つれづれなるままに」と「つれづれもなく」のあいだの 往き還りをわが身の負い目と見定め、そういう負い目のある人間のありのままの言葉にしたがってしるしとどめ る。
  『つれづれ草』は未練がましい書き残しものである。

《原文》
 山寺にかきこもりて、佛に仕うまつるこそ、つれづれもなく、心の濁りも清まる心地すれ。
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第十六段「神楽こそ、なまめかしく、おもしろけれ。おほかた、ものの音には、笛、篳篥。常に聞きたきは、琵琶・和琴。」

 これで全文です。とりあえず、ああそうですかと聞くしかありません。

 現代、神楽と言えば夢幻的な感興を誘うものだと思いますが、兼好の時代にもそうだったのでしょうか。そうだったならこの段は、現実から超俗的フィクションの世界への解放と言えるでしょう。「なまめかしく」という評もそれに相応しいし、音楽への志向もそれと軌を一にすると言えそうです。

 『兼好』は、この前後、第十五段から十七段について「今までにない新たな方向性を指し示している点で重要である」として「今までにないような爽快さや満足感が溢れている」と言っています。確かにそういう点が見られはしますが、しかしそれは必ずしも現実のものではなく、兼好はそれぞれの世界を思いやってみて、想像の中での解放感のように思います。

 私は若い頃、夜汽車の旅を空想して一つの憧れでしたが、実際にした、一夜、汽車の座席で過ごす数時間の旅は、そういうロマンとは違って、寝不足の目は痛くおしりは痛く、実はなかなか大変でした。憧れとはおおむねそうしたものであるのかも知れません。次の段で『古典』に語ってもらいます。

《原文》
 神樂(かぐら)こそ、なまめかしく、面白けれ。
 大かた、物の音には、笛・篳篥(ひちりき)、常に聞きたきは、琵琶・和琴(わごん)。
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