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第百六十段

 第二十二段でも「ただいふ言葉も、口をしうこそなりつくめれ」とありましたが、ここもそういう当代文明批判の視点から書かれたものと思われます。

 この段で兼好が否定的に言っている言い方の用例も、彼が取り上げるだけあって、実際には少なくなくあるようで、『全訳注』は「この段の説が、伝統的な言葉遣いに照らしてどの程度正当なのか、かなり怪しく、自他の好悪や癖を一般化して適不適をあげつらっているような気配がなくもない」としています。

 『全注釈』でも「額うつ」については「小さな反発」と言っています。

 よくないとされる理由がほとんど書かれておらず、「二品禅門」や「僧正」の言葉によってだけ正当化されているところから見ると、あるいはそのこと自体を書きとどめたかったのではないかという気もします。

 つまり、それなりに権威のある人の意見を一応メモしておくという程度の内容なのかもしれません。
終わりの「かかることのみ多し」は、その強調の仕方から考えると、言葉遣いの間違いが多いというのではなくて、どうなのだろうかと迷うようなこと、あるいは間違いではないが他の言い方の方がよりよいかも知れないと思われるようなことが多い、ということではないかと思います。

 この頃、テレビのニュースで「皮(川)が氾濫した」、「事件の拝啓(背景)」、「品物を髪(紙)に包んで届けた」とか、あるいは「どちらの主張が通るかどうか、注目されます」などに類する言葉を繰り返し聞くので、そういう文句を言いたくなる兼好の気持ちもよく分かります。

《原文》
門に額 懸(か)くるを、「打つ」といふはよからぬにや。勘解由小路(かでのこうぢ)二品禪門は、「額懸くる」とのたまひき。「見物の棧敷うつ」もよからぬにや。「平張うつ」などは常の事なり。「棧敷構ふる」などいふべし。「護摩焚く」といふも、わろし。「修(しゅう)する」、「護摩する」など云ふなり。「行法も、法の字を清みていふ、わろし。濁りていふ」と清閑寺僧正仰せられき。常にいふ事にかゝることのみ多し。

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第百五十九段

 この「やんごとなき人」も、ひょっとしてなかなかの食わせ物だったのではないでしょうか。

 『全注釈』が、平安前期の辞書『新撰字鏡』に「蜷」をニナともミナとも読んでいるとして、
《『日本古典大系』の『方丈記・徒然草』の頭注に、単語の初めにくるミとニの音は、しばしば通用することがある。例えば、nifo~mifo(鳰)、mina~nina(蜷)、mino~nino(蓑)、mira~nira(韮) これは、言葉の初めのミとニが、耳で聞いて同じように聞こえるために起こることである、とあるような事実が、兼好以前から存したことが知られる》
と書いています。

 つまり、「蜷」は、古くからミナともニナともいうのであって、どちらが正しいということは決めがたいようなのです。

 現に『徒然草』の諸本には、この段の記述が、ミとナが入れ替わっているものもあるということですから、私たちには、「やんごとなき人」が本当はどう言ったのかさえも定かではないということになるわけです。

 したがって、段末も「『にな』といふは誤りなり」と「『みな』といふは誤りなり」の二様があることになり、ほとんど、それ自体が笑い話と言えます。

 そう思って読み直してみると、知らない事だったのだから仕方がないのですが、兼好が「『にな』といふは誤りなり」と断定しているのが、「やんごとなき人」の尻馬に乗った形に見えて、尚古趣味が権威主義に足を踏み外してしまった感があります。

《原文》
「みなむすびといふは、絲をむすびかさねたるが、蜷(みな)といふ貝に似たればいふ」と或やんごとなき人、仰せられき。「にな」といふは誤りなり。

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第百五十八段

 ここから四段は言葉についての問題を扱っていますが、諸注の考証によれば、いずれも曖昧な点のある話のようで、読むのにもどう扱うべきか、心許ないところがあります。

 まずこの段、酒の席での座談なのでしょうが、初めの問いの意味が直ぐには分かりにくく思われます。砕いて言えば、「人に自分の盃を差す時に盃の底の酒を捨てて渡すのはどういう意味の作法か知っているか」という意味のようです。

 そこで兼好が「そういう作法を『凝当』(ぎょうとう・「凝」は「かたまる」、「当」は「底」の意)と言いますから、底に溜まっている酒を捨てるということでしょうか」と答えたところ、その人は「そうではない、確かにその作法を『ぎょうとう』と言うが、それは正しくは『魚道』であり、川から海に出た魚がまたその道を帰ってくるように、残った酒を自分が口をつけたところを通して流すことでその部分を洗い清める作法なのだ」と言われたということのようです。

 こう言われて兼好が納得したからこれを書いたのかどうか、定かではありません。

 『全訳注』は「『魚道』は魚群がつねに通過する経路をいうが、そのような意味で用いられた古例は未詳」と言っています。
 それに仮にそういう用例があっても、先のような意味に使うのは少し無理な例えのようにも思われます。

 そこで同書は、兼好がその当否を明示しなかったのは「しかるべき貴人とおぼしきその相手への遠慮によるものだろうか」と書いていて、否定的だったのではないかとしています。

 落語に「やかん」とか「ちはやふる」いう噺があって、語源説明を求められた大家さんが知らないと言えなくて無理矢理のこじつけをして聞かせる愉快な噺なのですが、ひょっとしてこの貴人は、奇想天外な思い付きの語源説明を故実ふうにもっともらしく語って兼好(あるいはその座の一同)をけむにまき、酒の肴にしたのではないだろうかと思ってしまいます。

《原文》
「杯の底を捨つることは、いかゞ心得たる」と、ある人の尋ねさせ給ひしに、「凝當(ぎょうたう)と申し侍れば、底に凝りたるを捨つるにや候らん」と申し侍りしかば、「さにはあらず。魚道なり。流れを殘して、口のつきたる所をすゝぐなり」とぞ仰せられし。
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第百五十七段

 第五十八段で、「心は縁にひかれて移るもの」として、仏道修行者は住む場所を選ばなくてはならない、ということを語っていましたが、ここでは住むところに限らず更に一般的に、環境というものが心にとっていかに大きな力を持つかが語られます。

 逆に言えば、兼好がいかに環境から大きな影響を受けていたかを物語る事にもなっているように思います。

 『全訳注』が、『徒然草』の「序段」に心引かれた読者にとって、「この段の説からすると『不善の戯れ』となりかねない本書の執筆をどう自覚していたのか」という「兼好についての疑問が湧いてくる」段ではないかと書いていますが、彼は元来、一つの考えに従って真っ直ぐに生きられる人ではなかったのではないでしょうか。
初めにある「筆」「楽器」「盃」「賽」など(あるいは書かれていない「故実」、「人間」)などなどに強く心引かれるひかれる人だったのだと思います。

 もちろんここで称揚されている「聖教の一句」「数珠」にも心引かれたのであって、それらへの興味津々たる関心が渾然と書き留められたのが『徒然草』だというわけです。

 また、この段で「外相もし背かざれば、内証必ず熟す。強いて不信を言ふべからず」とみずから言いながら、その一方で「腰かがまり、眉白く、まことに徳たけたる有様」の上人を「年の寄りたるに候」と一蹴する資朝卿に熱い視線を送る(第百五十二段)のが、兼好という人であるわけです。

《原文》
筆をとれば物書かれ、樂器(がくき)をとれば音(ね)をたてんと思ふ。杯をとれば酒を思ひ、賽をとれば攤(だ)うたむ事を思ふ。心は必ず事に觸れて來(きた)る。仮りにも不善のたはぶれをなすべからず。
 あからさまに聖教の一句を見れば、何となく前後の文(ふみ)も見ゆ。卒爾にして多年の非を改むる事もあり。假に今この文をひろげざらましかば、この事を知らんや。これすなはち觸るゝ所の益なり。心更に起らずとも、佛前にありて數珠を取り、經を取らば、怠るうちにも、善業おのづから修せられ、散亂の心ながらも繩床(じょうしゃう)に坐せば、おぼえずして禪定なるべし。
 事・理もとより二つならず、外相(げさう)若し背かざれば、内證かならず熟す。強ひて不信といふべからず。仰(あふ)ぎてこれを尊(たふと)むべし。

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第百五十六段

 故実の話で、私たちには縁のない内容ですが、驚かされる話です。

 大臣就任の披露の宴を、帝や女院の御所を借りて催し、そのために帝や女院は御所を空けてどこかへお出かけになったなどということが行われていたのだそうです。

 そして、女院の御所を借りるときなど、当人のとってたいした縁故があるわけでもない女院にもお願いすることができたというのです。

 『全注釈』の考証によれば、この宇治左大臣の宴が行われたという東三条殿は、当時内裏ではなかったようで、兼好の記憶違いのようですが、女院御所については一一九五年と一二〇八年に鳥羽天皇三女内親王御所、また一二一一年には高倉天皇妃御所などで行われた記録があるようです。
 初めの一一九五年の時は、女院は、前日熊野詣でからお帰りになったばかりのところだったのですが、「暫く女房宅に御す」ということだったのだそうで、全く驚くばかりです。

 いずれにしても統治の実権が鎌倉に移って以後の例ばかりのようですから、皇室の権威が衰えた頃のことということになるのでしょうが、どうしてこういうことが行われるようになったのかと、興味をそそられます。

 まさか、貴族たちの力が衰えて、そういう大饗宴を催す場所に困ったということはないでしょうが、貴族たちが鎌倉に対して自分達の権威を示す、あるいは結束を示すためのせめてものイベントの一つだったということででもあるのでしょうか。

《原文》
大臣の大饗は、さるべき所を申し受けて行ふ、常のことなり。宇治左大臣殿は、東三條殿にて行はる。内裏にてありけるを、申されけるによりて、他所へ行幸ありけり。させる事のよせなけれども、女院の御所など借り申す、故實なりとぞ。

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