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第百五十段

「初心者の持ちがちな自意識」(『全訳注』)を鋭く見抜いた、厳しい芸能論です。
 中島敦『山月記』で李徴が語る「臆病な自尊心」「尊大な羞恥心」という言葉を思い出させます。
 『山月記』は自意識の過剰が一人の詩人を破綻に追い込む悲劇と高貴を描いた作品ですが、私は実は、自意識というのは近代人特有の意識感覚だと、何となく考えていました。

 しかし考えてみればそんなはずはないのであって、昔の人も同じようにこういう矛盾した(ように見える)感覚(他人からよく思われたいという思いと、自分は自分であるという思いの葛藤)を持っていたはずです。ただ、自分の中の自意識を、性格の分裂というふうに考えなかっただけなのでしょう。

 それは、古代の人において愛情と肉欲があまり明確な区別を持っていなかったように思われるのですが、それと同じものの考え方なのかも知れません。

 ところで、『全訳注』が語っているこの段の背景についての意見は注目に値します。
《第百三十四段の『不堪の芸をもちて堪能の座に連な』ることへの否定的言辞や次段の趣旨からすると、兼好はこの段の論に単純にとらわれているのではなさそうである。それらとこれとの矛盾といえばいえる関係に、彼なりのたゆたいが示されているのであろう。ことによると、ここにあるのは他への啓蒙の念ではなくて、恥の感覚を持ち合わせて大成しそこなったわが身への自省の念かとも思われるのである。》

 私は、兼好という人はこういう、自分に対する負の感覚を持った人ではないかという気がします。

 と言って、『兼好』の説くように、その負の部分を見詰めてひたすら自分を追究していた人だというわけではありません。彼はそれを噛みしめながら、世俗に眼を懲らして生きていったのだと思います。
この段の主題は前段の「よくせざらんほどは」云々にあると思います.
その具体性、リアリテイに比べて、後段の研鑽努力を語る言葉は随分ありきたりで、具体性に欠けます。『全訳注』が「明快だが、多少楽天的な見方と思われなくもない」と言っている所以です。
兼好は、どうすれば芸の道に達しうるかを説いたのではなく、人はしばしば、自意識によって挫折する、と言いたかったのではないでしょうか。


《原文》
 能をつかんとする人、「よくせざらむ程は、なまじひに人に知られじ。内々よく習ひ得てさし出でたらむこそ、いと心にくからめ」と常にいふめれど、かくいふ人、一藝もならひ得ることなし。いまだ堅固かたほなるより、上手の中に交(まじ)りて、譏り笑はるゝにも恥ぢず、つれなくて過ぎてたしなむ人、天性その骨なけれども、道になづまず、妄りにせずして年を送れば、堪能の嗜まざるよりは、終に上手の位にいたり、徳たけ人、に許されて、ならびなき名をうることなり。
 天下の物の上手といへども、はじめは不堪のきこえもあり、無下の瑕瑾もありき。されども、その人、道の掟正しく、これを重くして放埒せざれば、世の博士にて、萬人の師となること、諸道かはるべからず。

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第百四十九段

 この段のことは単なる言い伝えではなく、『全注釈』によれば、当時の専門書にも書いてあることであるようです。

 そうだとすれば、これもおそらくまったく根拠のないことでもなく、たくさんの不幸な経験の中から導き出された教えの結論の部分だったのでしょう。

 こういうことを思うと、いつも坂口安吾の『ラムネ氏のこと』という風刺的エッセイを思い出します。

 しかし、鼻から虫が入って脳を食べるとは、現代考えると、なんとも童話的、絵本的な話で、「兼好がまにうけているらしくあるのがほほえましい」と『全訳注』が言うとおりだという気がします。

 「鹿茸」というのは強壮剤として用いられたようで、兼好と強壮剤というのは不似合いの印象がありますが、諸縁放下を心がける彼は、一人暮らしをすることになる不安からでしょうか、医術については大いに関心を寄せていて、『徒然草』でもしばしば医術を話題としています。

 彼の現実的不安の最大のものだったのではないでしょうか。

《原文》
 鹿茸(ろくじょう)を鼻にあてて嗅ぐべからず、小さき蟲ありて、鼻より入りて腦をはむといへり。

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第百四十八段

 この教えは素人療法の注意すべきことですが、真偽のほどは、鍼灸術の道から説明してもらう以外にはありません。

 そのこととは別に、『全注釈』が「『徒然草』も、この段になると、文学の領域から離れすぎて、一首の生活知識の記録となってしまっている」と言っているのが注意を引きます。

 兼好は『徒然草』を「文学」とは考えていなかったのではないか、というのが、私の基本的な考え方なのです。

 彼はまさしく「そこはかとなく」書きつづったのであって、和歌以外に文芸があるとは考えていなかったのではないでしょうか(いや、その上で、ひょっとして和歌さえも、彼の生きるたづきに過ぎなかったかも知れません)。

 ただ彼には幸いにして人を造形する眼と筆力が備わっていたので、「よしなしごと」を書いても、自然にそれが発揮されて、しばしばみごとに人間を描くことができた、ということではなかったのだろうかと思うのです。

 もちろん、『枕草子』のもじりとか『源氏物語』を意識した段とかがあるのですから、誰かが読むだろうということも意識されてはいたのでしょうが、もし製本されて人が見るとなったら、兼好は多くの段を削除したのではないでしょうか。

 あるいは逆に、と、今ふと思うのですが、兼好はこれを全くの実用書として書いたのかもしれません。

 私は教訓的読み方を極力避けたいと思って読んでいるのですが、彼にとっては教訓そのもののつもりだったのではないか。だから、この段のように全くの実用的なことも普通に書き込まれた…。

 ところができあがったものは、単なる処世術の心得や教訓を遥かに超えて、たくさんの典型的人物を造形することになりました。

 それは、彼の物事や人の要点を的確に捉える眼と、それを言葉にする能力、そしてスパイスとしてのいささか皮肉な精神が幸運な一体化を見た、偶然の結果なのではなかったでしょうか。

《原文》
四十(よそぢ)以後の人、身に灸を加へて三里を燒かざれば、上氣のことあり。必ず灸すべし。
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・ 第百四十七段
 
 「夜爪を切ると親の死に目に会えない」ということはよく言われることのようですが、例えば深爪をするとか、あるいは切った爪の端が火鉢に落ちたりしていやな匂いがして人を不快にすることへの戒めでしょう。
 「親の死に目」とは関係がないことですが、そのように言って、戒めに厳しさを添えているものと思われます。

 それと同様に俗信には俗信でそれなりの意味があるのではないでしょうか。

 ここに取り上げられた言い伝えも、「格式」にはないとしても、俗信として何か意味がありそうに思われます。

 例えば、あまりに一度に広く点灸すると体によくないということがある、など。 
 他にも、「身体髪膚、これを父母に受く。敢えて毀傷せざるは、孝の始めなり。」(『孝経』)という教えを守らせるため、とか。
 背中の灸の痕というのは、たくさんになると、残念ながら見よいものではないようにも思えます。
 
 この頃では、灸というものは非日常のものになっているようです。

 私が子どもの頃、祖父や父、母は肩や足が痛いと言ってはよく灸を据えていまして、そのついでというわけではないでしょうが、私も健康のためにと言って、時々据えられました。その後ひと年取って肩が凝るようになってからも、時々妻に頼んで肩から背中に五ヶ所くらい据えてもらっていて、私にとっては日常のことでした。

 ところがある時、温泉につかっていて、その浴場にたくさんいたお客に灸の痕のある人が全くいないことに気付き、驚いてしまいました。

《原文》
 灸治、あまた所になりぬれば、神事に穢れありといふこと、近く人のいひ出せるなり。格式等にも見えずとぞ。

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・ 第百四十六段

 『全注釈』が「この相者は、決して、明雲のことばじりを捉えて、揚げ足取りをしているのではない。その一世の高僧として仰がれている自己の立場について、何らの自信も自覚もなく、かかる質問を発した心性そのものの中に、『兵杖の難』の存在していることを直感したのである」と言っています。

 少し端折った、すぐには分かりにくい解説ですが、考えてみると確かにそう言えそうです。

 まず、明雲が自分に「兵杖の難」があるかと訊ねた以上、「兵杖」に遭うのではないかという不安があったわけで、と言うことは、それについていくらかなりとも身に覚えがあったということでしょう。

 一方で、高い地位にいるということは、それだけでいつもなにがしかの敵が存在することを避けられない(つまり「兵杖の難」が避けられない)わけでしょうが、それでも自分でその地位に居続けるということは、そういう敵が存在することに対する覚悟(自覚)と、そこにいることに対する自分にとっての意味(自信)が必要であるはずです。

 その「自信」と「自覚」があれば、こういう質問は出るはずがないと同書は考えるのでしょう。

 そして、自信と自覚のない権力者に対しては、敵の存在は一層濃厚になると言ってよいのではないでしょうか。

 この相者はそれを鋭く見抜いたというわけです。

 なお同書は、この明雲と信西のやりとりを明雲二十八歳の時と考証していて、彼の二十五年後の所業について『愚管抄』の次の一節を引用しています。
 《明雲ハ、山ニテ、座主ヲアラソヒテ、快修トタヽカヒシテ、雪ノ上ニ五仏院ヨリ西塔マデ、四十八人コロサセ  タリシ人ナリ。スベテ、積悪多カル人ナリ》

《原文》
明雲座主、相者(さうじゃ)に逢ひ給ひて、「己(おのれ)若し兵仗の難やある」と尋ねたまひければ、相人、「實(まこと)にその相おはします」と申す。「いかなる相ぞ」と尋ね給ひければ、「傷害の恐れおはしますまじき御身にて、假にもかく思しよりて尋ね給ふ。これ既にそのあやぶみの兆なり」と申しけり。
 はたして矢にあたりて失せ給ひにけり。
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