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第百三十段「物に争はず、おのれをまげて人にしたがひ」

 前の段で「誰か実有の相に着せざる」と書きながら、この段にはそういう視点がありません。

 その視点を透してみれば、喜怒哀楽がそうであったように、人が人に勝ちたいと思うのもまた「実有の相」であることは自明のことのはずです。

 やはり兼好は理論家ではありません。彼は「理論の赴くところ、どこへでも行こう」というように理論を語るのではありません。
 普通の人が多くそうであるように、彼が理屈を言っているように見える時、実はおそらくその前に彼の思いや気分があるのです。
 彼はその気分や思いを理論によって補強しているだけのようです。

 例えば、彼が諸縁放下を語る時、それは理論に基づいているのではなく、その時たまたま何かの理由で生身の彼に自己否定的な気分が生まれていたのでないかと私は考えています。

 この段もおそらくそういうものが彼の胸の内にあって書かれたのでしょう。
 彼の実生活で、ここは一歩引いておくしかないだろうと思うようなことがあったのではないでしょうか。

 『全注釈』が「こうした類(教訓的な段々)の中にも、兼好の生活経験がかなり投影している」と書いているのは鋭い洞察で、この文章の背後に兼好の溜息が聞こえるような気がします。

 『全訳注』が「趣旨はわかりやすいが、論の運びが直線的でなく、一読してすっきりした印象を持つことはむずかしい。しばらく続く教訓調にすこし退屈を覚える読者もいそうだ」と言っているとおりですが、「退屈を覚える」のは、結局この教訓が自己弁護的に聞こえてくるからではないでしょうか。

《原文》
 物に爭はず、己を枉(ま)げて人に從ひ、我が身を後にして、人を先にするには如(し)かず。
 萬の遊びにも、勝負を好む人は、勝ちて興あらむ爲なり。己が藝の勝りたる事を喜ぶ。されば、負けて興なく覺ゆべきこと、また知られたり。我負けて人を歡ばしめむと思はば、さらに遊びの興なかるべし。人に本意なく思はせて、わが心を慰めむこと、徳に背けり。むつましき中に戲(たはぶ)るゝも、人をはかり欺きて、おのれが智の勝りたることを興とす。これまた、禮にあらず。されば、はじめ興宴より起りて、長き恨みを結ぶ類多し。これ皆、争ひを好む失なり。
 人に勝らむことを思はば、たゞ學問して、その智を人に勝らむと思ふべし。道を學ぶとならば、善に誇らず、ともがらに爭ふべからずといふ事を知るべき故なり。大きなる職をも辭し、利をも捨つるは、たゞ學問の力なり。

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第百二十九段「顔回は、志、人に労を施さじとなり。」

 動物を虐待する話からの連想でしょう、弱い立場の人に辛い思いをさせてはならないという話に続きます。
 そしてその「思い」への配慮が心への影響を語り、体よりも心の大切さに至ります。

 大人はよく子どもを相手に、からかったり脅かしたりして興じることがありますが、ここでそれを戒める言葉には妙にリアリテイがあって、「子といふものなくてありなん」(第六段)と言ったのにも、こういう懸念が背景にあったのかとも思われます。
 子どもを相手にすることが不得手な人だったのではないでしょうか。
 『全注釈』が「兼好の体験が出ているように思える」というのも頷かれます。

 後段の、人間の喜怒哀楽は虚妄の上に生じるという考えは、仏教では当たり前のもののようですが、私たちには新鮮に思われ、またそう言われればなるほどと、かなり現実的にそうだと思わされます。

 特に人間関係の中で生じる喜怒哀楽は、そのかなり多くが、誤解や錯覚から生じているのではないかという気がしますし、しかもその感情自体が、多く時間の経過によって結局は薄れて消えていってしまうのですから。

 しかもそれにも関わらず、「誰か実有の相に着せざる」と言うあたりが兼好の面目で、諸縁放下を声高に力説する時よりもはるかに説得力を持っているように思います。

 こういう柔軟さこそが兼好の魅力だと私は思っています。

 そして続いて、心の痛みと体の痛み分けて論じているのにも驚かされます。
 またその時体の痛みよりも心の痛みの方が「人をそこなふ事なほ甚だし」としているのにはなお驚きます。

 古代においては精神と肉体は一体のものとして意識されていたと思われ、その乖離感は近代文学の一つの大きなテーマだったのではないかと思います。
 志賀直哉が「古代人」と評されたのもそういう観点からだったはずです。
 ここで兼好がその二つのものを明確に区別して語っているのは、そういう点からも意味を持っているのではないでしょうか。

 『兼好』は「兼好が徒然草の中で繰り返し問題にしていたのは、まさに人間の心のあり方である。その心というものをどのように理解し、御してゆくかというのが、兼好の大きな関心事だった」と書いています。

《原文》

 顔囘は、志、人に勞を施さじとなり。すべて、人を苦しめ、物を虐(しいた)ぐる事、賎しき民の志をも奪ふべからず。また、幼き子を賺(すか)し、嚇(おど)し、言ひ辱(はづか)しめて興ずることあり。大人しき人は、まことならねば、事にもあらず思へど、幼き心には、身にしみて恐ろしく、恥づかしく、浅ましき思ひ、誠に切なるべし。これを惱して興ずる事、慈悲の心にあらず。

 大人しき人の、喜び、怒り、哀れび、樂しぶも、皆 虚妄なれども、誰か實有の相に著せざる。身を破るよりも、心を痛ましむるは、人を害(そこな)ふ事なほ甚だし。病を受くる事も、多くは心より受く。外より來る病は少なし。藥を飮みて汗を求むるには、驗(しるし)なき事あれども、一旦恥ぢ恐るゝことあれば、必ず汗を流すは、心のしわざなりといふことを知るべし。凌雲の額を書きて、白頭の人となりし例(ためし)なきにあらず。
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第百二十八段「雅房大納言は、才かしこく、よき人にて」

 雅房にまつわる話と後の二段とは随分趣の異なる話です。

 兼好は、初め、雅房の所行(鷹の餌にしようと犬の足を切ったこと、実はそれはデマだったのだが)についてではなく、「君の御心」の「いと尊き」ことを書こうとしたのだと思います。

 読む者は誰もが、このあとに、それがいかに尊いかという方に話が進むことを予期するのではないでしょうか。
ところが第二段「大方」以下は動物をいじめることが言語道断であることを力説するのです。

 が、しかし、そこで語られるのは、第百二十一段同様に、動物たちの夫婦親子の愛情は「ひとへに愚癡なる故に、人よりもまさりて甚だし」というような、理屈好きの高校生あたりが言いそうな子供じみた感傷的な議論なのです。

 しかも、そもそも兼好自身、雅房の噂がデマであることは明らかだと言っているので、言葉が厳しくなればなるほど、ありもしなかったことに一体何をそんなに激しているのだろうかと、空にむなしく拳を振りあげている感を免れません。

 読む者は、むしろ、院は雅房の件がデマだということに気が付かなかったのだろうか、とか、あるいは仮にデマであっても、そういうデマを言われるようであること自体が雅房の至らなさだとでも思われたのだろうか、などという方に気が向いてしまいます。

 動物愛護を語りたいなら、もっと適切な例話はいくらでもあったでしょう。

 「君の御心」は為政者の心構えとして心の優しさを大切に思うという点にあったはずで、動物愛護にあったわけではないように思います。

 雅房にまつわるデマの残虐な衝撃性のために、話は「君の御心」から逸れて、動物虐待を戒める話へ自ずと引っ張られていき、主役になるはずだった院は姿を消してしまうことになったのではないでしょうか。

 例話も少々どぎつい話ですし、いろいろな意味でちょっと後味のよくない、この書の中では不出来の段だと思います。
 そして、これまで書いてきたように、そういう段は、決してこの段ただ一つというわけではないように思います。
 研究書の多くは、『徒然草』をまるで完成された文学作品のように読んでむやみにありがたがり、こういう段にまで深遠な思索が盛り込まれているかのように解説するきらいがありますが、実はそういう作品ではないのではないかという疑問が抜けません。
 Kuroda koutaさんのブログ「『徒然草』私的研究」に『徒然草』の各段について、
《単なる知識のメモ程度の内容もある。おそらく、『徒然草』が現代においても読まれるなどとは、卜部兼好は考えなかったのではないか。…おそらく、兼好の備忘であったのではないか。…内容は、玉石混淆である。中には、後世に書き加えたようにうかがえる段もあるようだ。もしかしたら、兼好は自分自身用の覚え書きとして手慰みに書き残したのではないか。》
とメモされていますが、全くそうだという気がします。

 そして、実はそういうふうに読んだ時に初めて、この作品から生身の兼好の息づかいが感じられるような気がするのですが、どうでしょうか。

《原文》
 雅房大納言は、才賢く、善き人にて、大將にもなさばやと思しける頃、院の近習なる人、「只今、淺ましき事を見侍りつ」と申されければ、「何事ぞ」と問はせ給ひけるに、「雅房卿、鷹に飼はんとて、生きたる犬の足を切り侍りつるを、中垣の穴より見侍りつ」と申されけるに、うとましく、にくくおぼしめして、日ごろの御氣色も違(たが)ひ、昇進もしたまはざりけり。さばかりの人、鷹を持たれたりけるは思はずなれど、犬の足は跡なき事なり。虚言は不便(ふびん)なれども、かゝる事を聞かせ給ひて、にくませ給ひける君の御心は、いと尊きことなり。
 大かた生けるものを殺し、痛め、闘はしめて遊び樂しまん人は、畜生殘害の類(たぐひ)なり。萬の鳥獸、小さき蟲までも、心をとめてありさまを見るに、子を思ひ、親をなつかしくし、夫婦を伴ひ、妬み、怒り、慾おほく、身を愛し、命を惜しめる事、偏(ひとえ)に愚癡なる故に、人よりも勝りて甚だし。彼に苦しみを與へ、命を奪はん事、いかでか痛ましからざらん。
 すべて一切の有情を見て慈悲の心なからむは、人倫にあらず。

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第百二十七段「あらためて益なき事は、あらためぬをよしとするなり」

 これだけで全文の短い段ですが、おもしろく思われます。

 全く当たり前のことを言っているに過ぎないようにも見えますが、その心は、人はしばしばどうでもよいようなつまらぬことを思いついて、無用に心を悩まし、つまらぬ結果に終わることが多いものだという、シニックなものであるように思われます。

 いやもっと言えば、人が思いつくのはおおむねそういうことしかないのだと、この時兼好は思ったのではないでしょうか。

 こういう段を読むと、あらためて「兼好の苦がい心」という小林秀雄の言葉が思い出されます。

 それをシニックに言わないで、このようにもっともらしく言ったところがおもしろく、、思わず笑ってしまいます。

 人はとかくあれこれと思い立つものです。
 しかし冒険的に全く新しい生活の中に新しい自分を求めるよりも、今の生活を着実に歩むことに努めることの方が益が多いことは言うまでもないでしょう。
 よほど明確な目算がない限り、隣の芝生がよく見えるだけのことなのです。

 そもそも、思い立つなどという人為の賢しらがよくないと兼好は考えます。
 私の先輩である某氏が酒に酔ってからむ時に発する決まり文句に「だらが本気になると、端が迷惑する(愚か者がなまじっか本気になると周囲のものが迷惑することが起こる)」というのがあって、しばしばそのうがったみごとな一言に黙らされたものですが、事柄の大事な流れは人の力でどうにかなるようなものではないという、人為を越えるものへの信頼・畏怖の感覚が、そこにはあるように思います。

《原文》

 改めて益なきことは、改めぬをよしとするなり。



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第百二十六段「『ばくちの、負けきはまりて』」

 第百九段に類似した話で、「あやしき下臈なれども、聖人の戒めにかなへり」という、その道に通じた者の認識の鋭さに感心した話です。

 確かに人の運というものにはいい時とそうでない時があるもののようで、私も身内の者の強運の連続を見たことがあり、そのお陰を受けたことが二度ほどあります。

 しかし、その二例とも、大きな幸運を引き当ててから、ぱたりと強運が消えて、特に悪くなったわけではありませんが、平常に返りました。

 負けの込んだ人がすべてを掛けて勝負を挑む時が、「たち返り、続けて勝つべき時」だというのがよく分かりません。
 「窮鼠猫を噛む」危険ということなのでしょうか。
 用心こそが名人の心得というのは、この書の中に幾度か書かれることですから、そういうことなのかも知れません。

 単に可能性としてあるというだけなら分からなくもありませんが、この「ばくち」の上手(と思われる人)の話は、かなりの程度に熟達した人同士の間のことで、勝負事の世界では、運も実力の内ということを聞きますから、凡庸の世界では計り知れないことかとも思います。

 私は将棋が好きでプロの棋士の棋戦に関心を持っています(ちなみに、佐藤康光九段の大ファンです)が、この世界でも、すでにある程度実績を持った人がある年爆発的に勝ち続けるということが時々あるようです。
 スポーツなどに比べて運に左右されることが比較的少ないと思われる競技でもあり、また、対戦相手が毎年そんなに変わるわけでもないと思うので、不思議な気がしますが、やはり「その時」ということがあるのでしょうか。

 また、プロ野球の放送をテレビで見ていると、解説者がしばしば「試合の流れをつかむ」というようなことを言いますが、あれも同じようなことなのでしょうか。

 ただ実際には「たち返り、続けて勝つべき時の至れる」ということはあまりないのではないかというのが、凡庸で勝負事にいたって弱い私の個人的感想です。

 したがって、私としては、これはむしろ負け続けている時に思い出さないように心すべき言葉で、ついついこの次は良い流れが来るのではないか、どこかで逆転して勝ち続けることになるのではないかなどと期待して挑み続けることになる危険を忘れないようにしたいものだと思います。

 そして、「負けきはまりて、残りなく打ち入れんと」するようなことのないように心したいと思います。
 むしろこちらの方で「その時」を知らなくてはなりません。

《原文》

 「博奕(ばくち)の負け極まりて、殘りなくうち入れむとせむに逢ひては、打つべからず。立ち歸り、続けて勝つべき時の至れると知るべし。その時を知るを、よき博奕といふなり」と、あるもの申しき。




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