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第百二十段「唐の物は、薬の外は、なくとも事欠くまじ」

 前段から、異境の地のものという連想でしょうか。

 ここから第百二十四段までの五段は身の回りの要不要を選り分ける話になります。

 ここは、「唐の物」に対する時代的な嗜好を批判した内容と取る解釈が多いようですが、その根底には、やはり「無為自然」、ことさらなるものを排して滞りのない生き方への希求があることを見落としてはならないでしょう。

 終わりに、中国からの輸入を必要無しとする持論の補強にその中国の古典を持ってきて、しかも「と、文にも侍るとかや」と言いさして結んだのは、意識してのものでしょうか。「諷刺」(『全訳注』)と言うよりも、むしろ巧みな洒落になっています。

 これがやりたくてこの段を書いたのではないかと思えるくらいです。そう言えば、いらないものの具体的なものとしては「文」しか挙げられていません。

 続く四段の前置きとしておもしろく思われます。

《原文》

 唐の物は、藥の外は、みななくとも事欠くまじ。書(ふみ)どもは、この國に多く広まりぬれば、書きも寫してん。唐土船の、たやすからぬ道に、無用のものどものみ取り積みて、所狹く渡しもて來る、いと愚かなり。
 「遠きものを寶とせず」とも、また、「得がたき寶をたふとまず」とも、書(ふみ)にも侍るとかや。


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第百十九段「鎌倉の海にかつをといふ魚は」

 食べ物にちなんで、食材のランクの変化に世の中の推移を見た段です。

 途中、「それも」が分かりにくい言葉です。
「その魚も」と解する説と、「ところが」というように解する説があるようですが、「その魚も」では、他の魚が話題になるわけではないので、不自然に思われます。

 「さうなきものにて、このごろもてなす」と言っても、というぐらいに考えて、そのもてはやされ様は、古老には気に入らないもののようだった、という意味に解するのがよいのではないでしょうか。

 終わりは、その古老の言葉を兼好流に敷衍したものですが、「世の末」は末世というような否定的な意味ではなく、単に時代が下ると、というくらいの読む方がいいと思います。

 たとえば『全訳注』が「鰹を食うようになったことに『世の末』を感ずるのは少しおおげさだが、いかにも兼好らしい頑固な当世観」と言っていますが、いくらなんでも魚の嗜好が変わったくらいで「末世」や文字通りの意味での「世の末」を持ち出すとは思われません。

 それに、そもそも兼好の尚古趣味は、いささか頑固ではあっても、そんなに偏狭なものではなく、賛同するかどうかは別にしても、一つの考え方として多くの人が理解はできる範囲のものであるように思います。

 「目黒のサンマ」のように、下賤のものとされていても実際食べてみればうまいというものはいろいろあるでしょうから、ネズミやミミズならいざ知らず、カツオを食べることが「末世」であるなどとは、兼好は言わないように思います。

 前の段で高貴の食材の話を書いたことから、下賤とされていた魚が地位を得るようになってきたことに、「慨嘆」(『全注釈』)などという大層なものではない、ちょっとした感慨をもったという異郷の旅の思い出を書きそえたというところではないでしょうか。

《原文》
 鎌倉の海に鰹といふ魚は、かの境には雙なきものにて、この頃もてなすものなり。それも、鎌倉の年寄の申し侍りしは、「この魚、おのれ等若かりし世までは、はかばかしき人の前へ出づること侍らざりき。頭は下部も食はず、切り捨て侍りしものなり」と申しき。
 かやうの物も、世の末になれば、上ざままでも入りたつわざにこそ侍れ。





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第百十八段「鯉のあつもの食ひたる日は、鬢そそげずとなん」

 食物の話というよりも、食物についての故実を語った段です。

 この段は第三十四段、六十四段、六十五段のように、鯉の話だけで終わるはずだったのではないでしょうか。

 諸本のように「鯛ばかりこそ」からを第二段落とすると、それは「やんごとなき」ものの話ということになって、そちらが中心テーマとなり、初めの鯉の話がその添え物のようになって不自然です。
 それなら普通段落の前後が入れ替わっているべきものでしょう。

 「やんごとなき魚なり」までを第一段落として、鯉の話で一括りする方が、話が分かりやすいと思いますし、筆者の書いていく気持ちも分かりやすいように思います。

 以下の鳥の話は「やんごとなき」と言ったことからの連想として引き出されたに違いありません。

 北山入道(西園寺実兼)は『全訳注』によれば様々に取り上げられることの多い、「配慮の行き届いた人物」であったようで、ここでも不似合いな場所に雁を見つけて、その場で口頭で言うのではなく、帰ってから「やがて、御文で」そっと、然しかなり厳しい言葉で娘・中宮に注意を促したあたり、同書の言うように、そういう人柄が躍如であると言えます。

 この北山入道に対しては、兼好も信をおいていたようで、第二百三十一段で再度、そこでも鯉の話とともに語られます。

 冒頭、「髪そそげずとなん」と伝聞形であって、兼好は「鯉のあつもの」は食べたことがなかったように読めます。

 鯉は紀元前五世紀には中国ですでに養殖がされていて、紀元後間もなく日本にも伝わったとされているようです。
 現代はともかく、昔の川や沼にはどこにでもいた代表的な魚という気がしますが、この当時そんなに珍しい魚だったということなのでしょうか。

 『全注釈』には『四条流包丁道』にある、食材の序列の上下の項が引かれています。
 それを要約すると、鷹狩りの獲物の雉を最上位として、次いで鯉と鯨が同列、以下、「河の物」、「海の物」、「山の物」(鳥)という順になるようです。
 
 ここに鯨が出てくるのには驚きました。

《原文》

 鯉の羮(あつもの)食ひたる日は、鬢(びん)そゝけずとなむ。膠(にかは)にも作るものなれば、粘りたる物にこそ。
 鯉ばかりこそ、御前にても切らるゝものなれば、やんごとなき魚なり。鳥には雉、さうなきものなり。雉・松茸などは、御湯殿(おゆどの)の上にかゝりたるも苦しからず。その外は心憂きことなり。中宮の御方の御湯殿の上の黒御棚(くろみのたな)に、雁の見えつるを、北山入道殿の御覽じて、歸らせたまひて、やがて御文にて、「かやうのもの、さながらその姿にて、御棚にゐて候ひしこと、見ならはず。さま惡しきことなり。はかばかしき人のさぶらはぬ故にこそ」など申されたりけり。



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第百十七段「友とするにわろき者、七つあり」

 『全注釈』が(『全訳注』も、やや)挙げられた友の善し悪しについて分析、考察していますが、ここはそういうふうに読むよりも、『集成』のいうように、「『論語』の…パロデイといった趣があり、そこに独特の面白さを感ずる」ほうがよさそうです。

 概して『徒然草』の中の「ものづくし(ものはづけ)」は、実際に兼好がそう考えていたと考えるよりも、着想の意表性をねらって取り上げ、その面白さをいささか自得的に遊んでいるのだと思って読んだ方がいいと思います。

 友とするのによくないのは、孔子さんは三種類と言っていますが、三つやそこらじゃない、いくらでもありますよ、と言って次々に七つ挙げたというのが最初の意表性です。

 もっとも、内容的には、初めの三つは意表性があってうまいと言えますが、四つめを境に、後の三つは平凡です。
 意表性に息切れがしたような感があります。

 そして二つ目の意表性は、『論語』の「益者三友、損者三友」がいずれも倫理性精神性の観点から選ばれているのに対して、ここではまったく兼好自身の苦手なタイプと現実的利益のあるタイプが挙げられているという点です。

 したがって、例えば『全注釈』のように、兼好の挙げる「よき友三つ」のそれぞれの打算性を深読みして、その背後に「真の友情」などを見ようとするのは、彼の趣旨に反することになるとおもいます。

 ここは彼の洒落を、彼と一緒に「ごもっともごもっとも」と笑って読む段です。

《原文》

 友とするに惡(わろ)き者、七つあり。一つには、高くやんごとなき人、二つには、若き人。三つには、病なく身つよき人。四つには、酒を好む人。五つには、武(たけ)く勇める兵。六つには、虚言(そらごと)する人。七つには、慾ふかき人。
 善き友三つあり。一つには、ものくるゝ友。二つには、、醫師。三つには、智惠ある友。




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第百十六段「寺院の号、さらぬよろづの物にも、名をつくる事」

 言葉が呪術的意味を持っていた昔は、名前を知ることがそのままそのものを所有することであるほどに、そのものの名前の意味があったわけですが、それが次第にただの記号と考えられるようになり、それがさらに現代では次第に装飾性を帯びたものになってきているようです。

 この頃の子供の名前は、「きらきらネーム」と言うのだそうですが、折りがあってそういう一覧表などを見ると、読み方と漢字が噛み合わないようなものとか、源氏名とか、遊びや冗談とかとしか思えないようなものが並んでいて、実に驚くばかりです。
 名付けた人の思いだけが先走っているように思われて、どうも違和感を覚えます。

 そのうちに絵文字の名前を認めろという訴訟でも起こす人が現れるのではないでしょうか。

 いわゆる「いい家」の子女が集まる某有名中学の女生徒の名前は、ほとんど下が「子」になっていると聞いたことがありますが、自信があるから、「才覚をあらはさんと」する必要がなく、またそうすることに品の無さを感じるからなのでしょう。

 どんな革命家でも朝起きたら顔を洗うという話を聞いたことがありますが、人の特異性は大切なところにだけ現れるのがよいのであって、その他はなるべく普通であるのがよいという意味だと思います。

 もっとも、特異な命名が一般化するとその方が普通になって、伝統的な普通の名前の方が特異に思われるようになるというややこしい問題もありますが、それでもこの点では私も尚古趣味で行きたいという気がしています。

《原文》

 寺院の號(な)、さらぬ萬の物にも名をつくること、昔の人は少しも求めず、唯ありの侭に安くつけけるなり。この頃は、深く案じ、才覺を顯はさむとしたる樣に聞ゆる、いとむつかし。人の名も、目馴れぬ文字をつかむとする、益(やく)なき事なり。
 何事も珍らしき事を求め、異説を好むは、淺才の人の必ずあることなりとぞ。


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