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第十段「家居のつきづきしく、あらまほしきこそ、仮の宿りとは思へど、興あるものなれ。」

 まずは前の二段からひらりとこういう話に転じて、真面目に語り始める呼吸がいいと思います。

 第二段落の「よき人」の住まいは、その書き方が具体的であることから考えれば、おそらく彼が見た誰かの家を描いているのでしょう。「そして初めの一文はそのことを書くための、言わば前振りというところでしょうか。そもそも「つきづきしく」(住んでいる人に似つかわしく)というのですから、住んでいる人を知って家を見ているのでしょう。

 第三段落では、その具体的な家の、心を尽くしながらそれを見せないたたずまいの素晴らしさを前提に、それとは逆に数奇を凝らしたことをありありと見せている在り方の趣味の悪さを挙げているわけです。
 もちろんそれは第一段以来、幾度も語られた、兼好のゆるがない美学です。

 つまり大切なことは、「わざとならぬ」、「心のまま」のさまがよいと言ってはいるのですが、それは決して自然の豊かな庭にしろとか、人為の加わらぬのがよいとか言っているわけではないという点です。あくまでも、「庭の草も心あるさまに、簀子、透垣のたよりをかしく」というように深く細かい配慮が利いていて、その上で「わざとならぬ」でなくてはならないのです。

 そして結局は、後段の後徳大寺大臣の縄を張り巡らした寝殿のように人為この上なく、おそらく外観も見苦しいこともまたこの上なくとも、それはそれで住む人の避けがたい配慮からのものであれば「いみじくこそと覚え」ることになるのです。

 こうしてみると、この段は、家居のあり方を単独で論じているのではなく、家居と住む人との動的な関わりに目を向けているのです。
 『枕草子』がこうした外界を捉えようとする場合「どちらかといえばスタテイックなとらえかた」(永積安明『徒然草を読む』岩波新書p16)をして、見事に対象をカットして鮮明に絵として描き出すのに比べて、兼好は外界を人間との関わり合いの相として捉えます。その対比の一つの好例は『枕草子』第一段と『徒然草』第十九段なのですが、それは後に触れることになります。

 そこで、さらに注目したいのは、後徳大寺の御殿の様について、西行のようにきりすてることをせず、「いかなるゆゑか侍りけん」と答えのないままに評価を保留したことです。それだけでは見苦しく見える光景も、そこに秘められた事情が伴えば別の意味を持つと兼好は考えるのでしょう。もっとも西行の切り捨てに対しても「いかなるゆゑか侍りけん」と言うべきだったかも知れませんが。

 最後に、またこの段でも中の結び的に「大方は、家居にこそ、ことざまはおしはからるれ」と言っているのですが、これも、そのように家を造れと教訓を垂れたりアドバイスをしたりしているのではありません。

 そこに住む人の内面のたたずまいが、家という形をとって、外に向かっておのずから避けがたく現れ出てしまうものなのだとして「興あるものなれ」と言っているのであって、それだからどうせよ、とかいうことは彼にとっては二の次なのです。

《原文》
 家居のつきづきしく、あらまほしきこそ、假の宿りとは思へど、興あるものなれ。
 よき人の、長閑(のどやか)に住みなしたる所は、さし入りたる月の色も、一際しみじみと見ゆるぞかし。今めかしくきらゝかならねど、木立ちものふりて、わざとならぬ庭の草も心ある樣に、簀子(すのこ)・透垣(すいかい)のたよりをかしく、うちある調度も昔覚えてやすらかなるこそ、心にくしと見ゆれ。
 多くの工(たくみ)の心を盡して磨きたて、唐の、大和(やまと)の、珍しく、えならぬ調度ども並べおき、前栽(せんざい)の草木まで、心のまゝならず作りなせるは、見る目も苦しく、いとわびし。さてもやは、存(ながら)へ住むべき、また、時の間の烟(けむり)ともなりなんとぞ、うち見るよりも思はるゝ。大かたは、家居にこそ事ざまは推(お)しはからるれ。
 後徳大寺の大臣の寢殿に、鳶(とび)ゐさせじとて、縄を張られたりけるを、西行が見て、「鳶の居たらんは、何かは苦しかるべき。この殿の御心、さばかりにこそ」とて、その後は參らざりけると聞き侍るに、綾小路宮のおはします小坂殿の棟に、いつぞや繩を引かれたりしかば、かの例(ためし)思ひ出でられ侍りしに、誠(まこと)や、「烏のむれゐて池の蛙をとりければ、御覧じ悲しませ給ひてなん」と人の語りしこそ、さてはいみじくこそと覚えしか。
 徳大寺にも、いかなる故か侍りけん。


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第九段「女は髪のめでたからんこそ、人の目たつべかめれ。」

 『作品研究』はこの段末の「みづから戒めて、おそるべく慎むべきは、このまどひなり」について「人間性の眞実に目ざめた著者の、自我確立の要請に發するものであることを見誤ってはならぬ」と言っていますが、それほどせっぱ詰まった思いなら、その前の一文のような故事の知識を誇っているとしか思えないような例え話を悠長に書くはずがないように私には思われます。

 むしろこの段は、男とは異なる生き方をしている女性というものを、感嘆と怖れをもって評しているというべきでしょう。男が女を自分とは別種の生き物のように感じることは若い頃にはよくあるものです。

 この段を読んで心に残るのは、女性の髪の妖艶さ、ちょっとした物腰、振るまいの魅惑(それは実に的確に書かれています)、末尾にある女性の髪と足駄についての魔術的な故事、そしておそらくはそういう女性にふりまわされたであろう筆者の経験への悔しい思い、というところでしょう。

 諸注は兼好の経験をふまえた話だろうと推測していますが、男の失恋をこういう形で聞かされた者は、面前では仮に黙って承るにしても、仲間内では笑えばよいのです。

 「ことにふれて、うちあるさまにも人の心をまどはして」云々の何と恨みがましく、読むものに滑稽を感じさせることか。

 そんなことを兼好が承知していないはずはありません。いくら語ってみても所詮は「ただかの惑ひひとつ止めがたき」と言っているのですから。

 段末の一文も、「いやまったく、参ってしまうよ」と彼は苦笑いしているに違いないと思われます。

《原文》
 女は髪のめでたからんこそ、人の目だつべかめれ。人の程、心ばへなどは、もの言ひたるけはひにこそ、物越(ものご)しにも知らるれ。
 事に觸れて、うちあるさまにも、人の心をまど(惑)はし、すべて女の、うちとけたる寝(い)も寝(ね)ず、身を惜しとも思ひたらず、堪ふべくもあらぬ業にもよく堪へ忍ぶは、たゞ色を思ふがゆゑなり。
 まことに、愛著の道、その根深く、源遠し。六塵(ろくぢん)の樂欲(ごうよく)多しといへども、皆 厭離(えんり)しつべし。その中に、たゞ、かの惑ひ(=色欲)のひとつ止(や)めがたきのみぞ、老いたるも若きも、智あるも愚かなるも、変はる所なしとぞ見ゆる。
 されば、女の髪筋を縒(よ)れる綱には、大象(だいぞう)もよくつながれ(=『大威徳陀羅尼經』にあり)、女のはける足駄にて造れる笛には、秋の鹿、必ず寄るとぞ言ひ傳へ侍る。自ら戒めて、恐るべく愼むべきは、この惑ひなり。


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第八段「世の人の心まどはす事、色欲にはしかず。」

 この書き出しが教訓的な調子なので、それに引っ張られるのか、『集成』はこの段には「若き日の兼好の気持ちが、相当率直に表現されている」と言い、『全注釈』も兼好の「切実な嘆き」と言い、また「内省的、主体的な問題として取り上げ」「人間性の暗い一面に切り込んでいる」と評していますが、「匂ひなど仮のものなるに」という取り上げ方、久米の仙人の挿話の「さもあらんかし」という結び方など、そんなに深刻に書いているとは思えません。

 むしろ、自分の経験を思い返して、おれもあの時は馬鹿だったなあと思い、また久米の仙人が見た「物洗ふ女の脛の白き」を思い描きながら、あいつも慌てただろうなあと笑っているのだというように読みたいと思います。

 何と言っても久米の仙人のこの話は、そういう失敗の結果その女と結ばれたというハッピーエンドの話なのです。


 この段の書き出しのように兼好が時々添える教訓的フレーズは、しばしば、一段のテーマだとか筆者の主張だなどと思わないで、ここのように苦笑いの溜息か、あるいは笑いをかみ殺した韜晦などとして読む方が、断然おもしろく読めることが多いように思います。

《原文》
 世の人の心を惑はすこと、色欲には如かず。人の心は愚かなるものかな。
 匂ひなどは假のものなるに、しばらく衣裳に薫物(たきもの)すと知りながら、えならぬ匂ひには、必ず心ときめきするものなり。久米の仙人の、物洗ふ女の脛(はぎ)の白きを見て、通を失ひけんは、まことに手足・膚(はだえ)などのきよらに、肥え膏(あぶら)づきたらんは、外の色ならねば、さもあらんかし。


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第七段「あだしのの露消ゆる時なく、鳥部山の烟立ち去らでのみ住みはつる習ひならば」

 「世は定めなきこそいみじけれ」とは、人の命の有限であることがすばらしいと言っているわけです。確かに、もし現在の世の中が永遠不変のものであるとしたら、どれほどやりきれないことでしょうか。
 そしてまた、もし私という人間がついに死ぬことなく永遠にこの世に生きなくてはならないとしたら、それは私にとってどれほど恐ろしいことか。
 
 先にも述べたように、兼好がこれを書いた時まだ三十歳前後の若者ということになるようです。すぐ後の「四十に足らぬほどにて死なんこそめやすかるべけれ」は、まだそこまでにいくらか間のある年齢の感想であしょうから、この年齢推定は妥当と思われますが、それにしては冒頭の一節はこの年齢にしてはずいぶん深い洞察の言葉です。

 三十歳前後といえば、現代の私たちの実感で考えれば、まだまだ「定めなき」ことを悲しみ憤る年代のように思われますが、あるいは当時のこの年齢としては常識的な認識ということなのでしょうか。
 また彼独自のものであるならば、彼にそう思わせるような何事があっただろうかと考えたくなります。

 世の中が無常であることから、人の様々な営みや思いができてきます。喜怒哀楽は、それが常でなく交々に訪れて一定でないから喜怒哀楽と感じるのであり、また自分の生や世の中の現在が永遠不変でなく、今あるものは必ず無くなるということから生じるのです。
 そして人の生の充実は結局その喜怒哀楽(「もののあはれ」)のそれぞれをどれほど深く味わったかにあるのであってみれば、無常であることは、人間の生の充実には必須のものであるわけです。兼好も、そういう意味で「いみじけれ」と言ったのでしょう。

 第六段までの内容は才走った青年の思いついた気の利いた言葉とも言えますが、この段の冒頭の言葉はそれだけの認識が無くては出てこない言葉であると思われます。

 しかし彼は、世の中は無常なものだと言ってはみても、人間が歳を取って移ろいゆくのは我慢がならないようです。
 私はこれに続く文章を、以前は四十に近くなった筆者が自分をふり返って見ていやな歳を取ったものだとため息をついているように読んでいたのですが、今度読んでみると仮想して書いたものであることは間違いないようで、やはりもう少し前の青年の言葉でしょう。

 ところで、こうは書いたものの、実際の兼好は、七十歳のころまで、歌の世界で人前に出てそれなりの活動をしていたようです。
 
 こういう思いもまたひとつの「喜怒哀楽」であって、「無常」はそれをも飲み込んでしまうものなのです。

《原文》
 あだし野の露消ゆる時なく、鳥部山の煙立ちさらでのみ住み果つる習ひならば、いかに、物の哀れもなからん。世は定めなきこそいみじけれ。
 命あるものを見るに、人ばかり久しきはなし。かげろふの夕を待ち、夏の蝉の春秋を知らぬもあるぞかし。つくづくと一年(ひととせ)を暮らす程だにも、こよなうのどけしや。飽かず、惜しと思はば、千年(ちとせ)を過すとも、一夜の夢の心地こそせめ。住みはてぬ世に、醜きすがたを待ちえて、何かはせん。命長ければ辱(はじ)多し。長くとも四十(よそぢ)に足らぬほどにて死なんこそ、目安かるべけれ。
 そのほど過ぎぬれば、かたちを恥づる心もなく、人に出(い)でまじらはん事を思ひ、夕(ゆふべ)の日に子孫を愛して、榮行(さかゆ)く末を見んまでの命をあらまし、ひたすら世を貪る心のみ深く、物のあはれも知らずなり行くなん、浅ましき。




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第六段「わが身のやんごとなからんにも、まして数ならざらんにも、子といふものなくてありなん」

 第二段とよく似た書き方ですが、そちらが具体的な内容を持っているのに対して、こちらはただ「子供はない方がよい」と言うだけで、その理由も何も明らかにされません。前の第五段からの連想で書かれたに過ぎないものなのでしょうか。
 「あるかなきかに門さしこめて」の暮らしや、「配所」での暮らしを「あらまほし」とする以上は、子供の存在は望ましくはないでしょう。そういう美意識を背景に、『全注釈』の言うように、「『子といふものなくてありなん』と言い放った痛快さ・自由さに、兼好自身が酔ってしまったともいえるかもしれない」ということなのでしょうか。

 ただ、文中に、「子孫おはせぬぞよく侍る。末の後れ給へるは、わろき事なり」と『大鏡』を引用しているのが目をひきます。
 『源氏物語』でも源氏は息子の夕霧の行く末を心配して「はかなき親にかしこき子のまさる例は、いとかたきことにはべれば」(少女)と、当時の高貴の家としては異例の大学寮に入れて学問をさせることにします。
 兼好の尚古趣味はよく言われることですが、実は古い時代においては、時代は下るとともに悪くなると考えるのが一般的だったのではないでしょうか。
 仏教に末法という考え方があるように、宗教では普通宗祖が最も尊い者とされます。それは普通、逆に親よりも自分の方が偉いと思う人は、めったにいないということからも自然な考え方のように思えます。
 
 時代が下れば世の中はその分よくなる、今日よりも明日がよくなる、という考え方は、あるいは自然科学の登場以後に生まれた、特異で歴史の浅いものではないかとも思われ、案外人類が現在一時的に思い描いている幻想に過ぎないのかも知れません。

 そうだとすれば、「子といふものなくてありなん」は、人間の普遍的な不安を言っているとも言えそうです。

《原文》
 我が身のやんごとなからんにも、まして數ならざらんにも、子といふもの無くてありなん。

 前中書王(さきのちゅうしょおう)・九條太政大臣(くじょうのおおきおとど)・花園左大臣、皆 族(ぞう)絶えん事を願ひ給へり。染殿大臣も、「子孫おはせぬぞよく侍る。末の後れ給へるは、わろき事なり」とぞ、世繼の翁の物語にはいへる。聖徳太子の御(み)墓を、かねて築(つ)かせ給ひける時も、「こゝをきれ、かしこを斷て。子孫あらせじと思ふなり」と侍りけるとかや。



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